2003.10.21
古代がいちばん新しい
最近、古代に興味がある。

人類総体の知恵や技術という観点で見たとき、情報技術などは高度化しているけれども、それ以外のいろいろなスキルが退化しているような気がする。

例えば写真や映画、ラジオ、テレビなどの革新的な技術が登場したとき、それは人類の認識・知覚を変容させるほどのインパクトを持ったはずだ。しかし新技術が脚光を浴びると同時に、その影でひっそりと「リストラ」されるスキルもあったにちがいない。

例えば写真の場合、その登場によって、それまでは重宝されたはずの「現物そっくりに絵を描く」というスキルがいきなり意味を失った。写真以降、株が暴落するみたいに、絵を描くというスキルは急速に衰退したはずだ。

同様に、電卓によってソロバンのスキルが衰退したはずだし、ワープロやコンピュータによって、手書き文字や漢字のスキルが衰退したはずだ(ダンス☆マンの歌に「漢字読めるけど書けない」というのがあった。私もそうだし、みんなそうだろう)。

それはいわば、技術の自然淘汰みたいなものかもしれない。それを目にしても、私は滅びゆく技術を惜しむような趣味を持っているわけではない。しかし、ほんとうに古い技術があらゆる意味で不要で、新しい技術だけで足りるのだろうか。

旧技術を捨てて新技術だけを追っていくのは、技術的には良くても、人間的にはどうも偏っていくような気がしてならない。

私が感じるその「偏り感」を言い換えれば、いわゆる「新しい」ものが、あまり新しいと感じない、というふうにも言える。そう感じることが私はよくあるのだ。

例えば新刊書店(いわゆる「本屋」)。私は本が好きなので、新刊書店に行けば1日じゅうでも立ち読みしていられる。しかし同じ1日じゅう過ごすなら、古書店や図書館のほうが断然面白い。新刊書店にはありきたりでつまらない本が多く、「フレッシュなもの」がないのだ。

例えばテレビの音楽チャート。いまの「ベストテン」に、1曲でも「新しい」音楽が入っているだろうか。次から次へと出てくる得体の知れない「アーティスト」に、ほんとうにアーティストと呼べるような人がどのくらいいるだろうか。

かといって、私は「古いものがいい」とか、「本物志向」みたいな人間でもない。新しいもの、若い才能、チャレンジ精神が私は大好きだ。

ただ、単に最近出たというだけの「新しい」ものには皮相的なものが多く、アイディアや作品としての本質的な「新しさ」はまったく持っていないというケースが大半だ、ということも事実だと思うのだ。

そんな観点から、最近は古代に興味がある。私としては、情報技術を捨てて古代に向かうような感じではなく、情報技術によって古代を復活させるような、そんなアプローチができたら面白いと思う。

なんかまとまりのない記述になってますが、これから古代にハマりそうなので、その予告編的なつぶやきということで。