上野「聚楽台」閉店 高度成長期に集団就職した「金の卵」の思い出の店
きのう(21日)は先日の聚楽台のエントリに、「聚楽台 閉店」などの検索でたくさんアクセスが来ていた。あちこちの新聞サイトに聚楽台閉店のニュースが出ており、ただの店ではなかったことを私はいまごろ知った。
読売新聞 - 上野「聚楽台」が半世紀の歴史に幕、なじみ客が名残惜しむ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080421-OYT1T00650.htm
<同店は1959年、上野公園の土手沿いの商業ビル「西郷会館」の2階にオープン。
さつま揚げや角煮、明太子など九州の名産品を乗せた名物の「西郷丼」が人気を集めた。
安土桃山時代の城をイメージした内装は開店当時からほとんど変わっていないという。
高度成長期に東北や北陸地方から集団就職で上京した地方出身者が、旧交を温める場にもなってきた。
16歳の時に夜行列車で上京し、製本業者に就職した新潟出身の高橋好雄さん(60)(千葉県松戸市)は親せきが上京するたびに足を運んだといい、「昔から変わらない雰囲気が好きだった」と感慨深げだった>。
産経新聞 - きょう閉店の老舗レストラン 集団就職経験者らで満員御礼 上野
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080421/trd0804211342029-n1.htm
<昭和の香りを残したまま、建物の老朽化のため閉店日を迎えた東京・上野駅前の老舗レストラン「聚楽台(じゅらくだい)」。21日の昼時は、思い出の味をほおばろうと、かつて集団就職で上京した人らが詰めかけた。“食べ納め客”で満員御礼の店内には空席待ちの長い行列ができ、半世紀前の開店当初をほうふつさせる繁盛ぶりとなった。
足立区から、夫婦で訪れた辻義明さん(62)は、「集団就職で15歳の時に上野駅に上京した。その時、この店で食べた五目そばを今日は注文した。昔を思いだした」と昔を懐かしんだ>。
朝日新聞 - 「金の卵」迎えたレストラン、50年の歴史に幕
http://www.asahi.com/life/update/0419/TKY200804190114.html
<東京・JR上野駅前のレストラン「聚楽台(じゅらくだい)」が21日に閉店し、半世紀にわたる歴史をいったん閉じる。入居している「西郷会館」の建て替えが始まるためだ。高度成長期には、集団就職の若者たちが「東京の北の玄関口」に着いて最初に食事をする場所だった。西郷会館は長年親しまれてきた外観を一新し、2010年暮れに完成する予定だ。
(中略)
集団就職で上野駅に着いた人たちは、ここで食事をしてから就職先へ向かった。サラリーマンはここで一杯やってから、出張へ向かう夜行特急に飛び乗った。聚楽台を経営する聚楽レストラン営業部の木村文高さん(49)は、「思い出の場所として、いまも年に1度、必ず集まって来てくださるお客様がいる」という>。
私は「集団就職」とか「金の卵」という言葉は知っていたが、その意味をこれまでよく理解していなかった。
ウィキペディア - 集団就職
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%B0%B1%E8%81%B7
<集団就職(しゅうだんしゅうしょく)とは就職活動を集団で行なうこと。特に、日本の高度経済成長期に盛んに行なわれた、農村から都市部への大規模な就職運動のことをさす場合が多い>。
<典型的な集団就職として、農家の次男以降の子が、中学校や高校を卒業した直後に、都市部の工場などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。集団就職列車は1954年(昭和29年)に運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして有名である>。
<こういった若年の労働者は、将来性が高いという意味と、安い給料で雇えるという意味から金の卵と呼ばれてもてはやされた。就職希望者数に比べて求人数が著しく多くなった時期には、更に貴重であるとして月の石と呼ばれたこともあった。場合によっては、雇用主側が新卒中学生を一軒一軒尋ねて募集するなどの動きも見られた。
職種としては単純労働(ブルーカラー)が主体であったため、雇用条件や作業環境もかなり厳しく、離職者も多かった。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境だったとも言われる>。
日本の高度経済成長を支えた労働力が、地方の農村から集団就職で上京してきた「金の卵」だったのだ。その「金の卵」たる若者たちが、集団就職列車ではじめて東京に降り立ったのが上野駅であり、その駅前にあったのが聚楽台で、「金の卵」たちはそこで初めて洋食を食べたりしたのだ。
聚楽台の開店は1959年。まさに高度経済成長とともに「昭和の日本」を生き、支えた店だったはずだ。
先日行った聚楽台は、たしかに元気なお年寄りであふれかえっていた。その「お年寄り」は、かつて「金の卵」として上京した若者たちだったのだろう。
上記のニュースにある、「集団就職で15歳の時に上野駅に上京した。その時、この店で食べた五目そばを今日は注文した。昔を思いだした」という辻義明さん(62)の言葉を読み、辻さんがどんな気持ちで五目そばを食べたかと思うと、私が涙が出てきた。この47年間で日本は大きく変わり、辻さんも15歳から62歳になった。しかし聚楽台と五目そばはあの頃のまま、変わっていなかったのだ。
上野 聚楽台
聚楽台閉店のお知らせ
(いずれも 2008/4/17 mojix撮影)
関連エントリ:
まもなく閉店の上野「聚楽台」で西郷丼を食べる
http://mojix.org/2008/04/18/ueno_jurakudai
読売新聞 - 上野「聚楽台」が半世紀の歴史に幕、なじみ客が名残惜しむ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080421-OYT1T00650.htm
<同店は1959年、上野公園の土手沿いの商業ビル「西郷会館」の2階にオープン。
さつま揚げや角煮、明太子など九州の名産品を乗せた名物の「西郷丼」が人気を集めた。
安土桃山時代の城をイメージした内装は開店当時からほとんど変わっていないという。
高度成長期に東北や北陸地方から集団就職で上京した地方出身者が、旧交を温める場にもなってきた。
16歳の時に夜行列車で上京し、製本業者に就職した新潟出身の高橋好雄さん(60)(千葉県松戸市)は親せきが上京するたびに足を運んだといい、「昔から変わらない雰囲気が好きだった」と感慨深げだった>。
産経新聞 - きょう閉店の老舗レストラン 集団就職経験者らで満員御礼 上野
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080421/trd0804211342029-n1.htm
<昭和の香りを残したまま、建物の老朽化のため閉店日を迎えた東京・上野駅前の老舗レストラン「聚楽台(じゅらくだい)」。21日の昼時は、思い出の味をほおばろうと、かつて集団就職で上京した人らが詰めかけた。“食べ納め客”で満員御礼の店内には空席待ちの長い行列ができ、半世紀前の開店当初をほうふつさせる繁盛ぶりとなった。
足立区から、夫婦で訪れた辻義明さん(62)は、「集団就職で15歳の時に上野駅に上京した。その時、この店で食べた五目そばを今日は注文した。昔を思いだした」と昔を懐かしんだ>。
朝日新聞 - 「金の卵」迎えたレストラン、50年の歴史に幕
http://www.asahi.com/life/update/0419/TKY200804190114.html
<東京・JR上野駅前のレストラン「聚楽台(じゅらくだい)」が21日に閉店し、半世紀にわたる歴史をいったん閉じる。入居している「西郷会館」の建て替えが始まるためだ。高度成長期には、集団就職の若者たちが「東京の北の玄関口」に着いて最初に食事をする場所だった。西郷会館は長年親しまれてきた外観を一新し、2010年暮れに完成する予定だ。
(中略)
集団就職で上野駅に着いた人たちは、ここで食事をしてから就職先へ向かった。サラリーマンはここで一杯やってから、出張へ向かう夜行特急に飛び乗った。聚楽台を経営する聚楽レストラン営業部の木村文高さん(49)は、「思い出の場所として、いまも年に1度、必ず集まって来てくださるお客様がいる」という>。
私は「集団就職」とか「金の卵」という言葉は知っていたが、その意味をこれまでよく理解していなかった。
ウィキペディア - 集団就職
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%B0%B1%E8%81%B7
<集団就職(しゅうだんしゅうしょく)とは就職活動を集団で行なうこと。特に、日本の高度経済成長期に盛んに行なわれた、農村から都市部への大規模な就職運動のことをさす場合が多い>。
<典型的な集団就職として、農家の次男以降の子が、中学校や高校を卒業した直後に、都市部の工場などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。集団就職列車は1954年(昭和29年)に運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして有名である>。
<こういった若年の労働者は、将来性が高いという意味と、安い給料で雇えるという意味から金の卵と呼ばれてもてはやされた。就職希望者数に比べて求人数が著しく多くなった時期には、更に貴重であるとして月の石と呼ばれたこともあった。場合によっては、雇用主側が新卒中学生を一軒一軒尋ねて募集するなどの動きも見られた。
職種としては単純労働(ブルーカラー)が主体であったため、雇用条件や作業環境もかなり厳しく、離職者も多かった。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境だったとも言われる>。
日本の高度経済成長を支えた労働力が、地方の農村から集団就職で上京してきた「金の卵」だったのだ。その「金の卵」たる若者たちが、集団就職列車ではじめて東京に降り立ったのが上野駅であり、その駅前にあったのが聚楽台で、「金の卵」たちはそこで初めて洋食を食べたりしたのだ。
聚楽台の開店は1959年。まさに高度経済成長とともに「昭和の日本」を生き、支えた店だったはずだ。
先日行った聚楽台は、たしかに元気なお年寄りであふれかえっていた。その「お年寄り」は、かつて「金の卵」として上京した若者たちだったのだろう。
上記のニュースにある、「集団就職で15歳の時に上野駅に上京した。その時、この店で食べた五目そばを今日は注文した。昔を思いだした」という辻義明さん(62)の言葉を読み、辻さんがどんな気持ちで五目そばを食べたかと思うと、私が涙が出てきた。この47年間で日本は大きく変わり、辻さんも15歳から62歳になった。しかし聚楽台と五目そばはあの頃のまま、変わっていなかったのだ。
上野 聚楽台
聚楽台閉店のお知らせ
(いずれも 2008/4/17 mojix撮影)
関連エントリ:
まもなく閉店の上野「聚楽台」で西郷丼を食べる
http://mojix.org/2008/04/18/ueno_jurakudai