佐藤武夫という建築家
ウィキペディア - 佐藤武夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90...
<佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は日本の建築家。建築音響学の先駆者>。
私が佐藤武夫の名前を初めて知ったのは、「日本におけるDOCOMOMO100選」だった。
日本におけるDOCOMOMO100選
http://www.docomomojapan.com/docomomo100.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5...
これはDOCOMOMO Japanという団体が、日本の近代建築から名作を100個選んだものだ。
このなかに、私の故郷である北海道旭川市の「旭川市庁舎」が入っていた。
旭川市役所の印象的な建物は、旭川市民なら誰でも知っている。適度に目立ち、シンボル的で、しかしそれほど押しつけがましくなく、品があって、やさしい感じの建物だ。たしかにいま考えると、昭和のモダニズムという感じがする。
しかし子供の頃の私は建築のことなどまったくわからなかったし、高校まで旭川で過ごし、旭川市役所の近くをしょっちゅう通っていたのに、その建物を眺めたことなど一度もなかった。
その建物が、日本近代建築のベスト100に選ばれるほどの名作だったらしいことを知り、驚いた。そして、それを設計した佐藤武夫という建築家は、あの早稲田大学の大隈講堂も手がけた人だという。
(2007年に改装されたとのこと これは改装前)
旭川市庁舎と大隈講堂では、知名度では大きな開きがあるが、たしかに共通のテイストがあると思える。
株式会社佐藤総合計画 - 佐藤武夫のプロフィール
http://www.axscom.co.jp/stg/profile/index.php
この佐藤総合計画は佐藤武夫が創業した会社で、いまでも存続・発展しているようだ。ここに載っている佐藤武夫のプロフィールを読んで、私はますます佐藤武夫に興味を持った。
このプロフィールによると、佐藤武夫は軍人だった父親の転勤にあわせて、幼少の頃から仙台、京都、名古屋、旭川、岩国などを転々としたらしい。『世界の建築様式』という本に出会って、志望を医者から建築に変え、早稲田大学に入学。早稲田を選んだのは建築雑誌の影響だったという。在学中から、当時早稲田の教授だった佐藤功一の事務所で業務にも携わり、デザインの才能を評価されて、卒業後ただちに助教授に任命、その後佐藤功一が早稲田大学の大隈講堂を手がけることになり、実質的にその設計を担当する。
ここまでのキャリアでも相当なものだと思うが、大隈講堂の設計にあたり、坪内逍遥宅へ出入りして演劇を研究、さらに建築における音響の問題にぶちあたる。これを研究して、日光東照宮の「鳴竜現象」も解明、日本の建築音響学の先駆者になった。
参考:早稲田大学・佐藤武夫による建築音響の研究
http://www.acoust.rise.waseda.ac.jp/publications/happyou/jabs/jabs-tokita-2006.pdf
1938年には早稲田大学教授となり、建築計画学、設計製図、音響学を担当、戦後はその職を辞し、設計事務所の実務に専念したという。沿革によると、1954年に自分の事務所を株式会社化し、旭川市庁舎(1958年)はその後の作品のようだ。
旭川市庁舎や大隈講堂のような、あたたかくもモダンな建物をつくり、かつ建築音響でも大きな業績を上げ、早稲田大学教授の職を辞して実務に専念、その後も発展しつづける会社を作ったという佐藤武夫のキャリアは、日本の建築家としてはやや異色ではないだろうか。
私は特に建築に詳しいわけではないが、建築という仕事は、デザインや技術、人間的・社会的要求、ビジネス的側面など、さまざまな要素・制約のバランスのもとに成り立っていることは想像できる。
佐藤武夫のキャリアを読み、あらためてその作品写真を見て、旭川市庁舎のたたずまいを思い出してみると、佐藤武夫はきっと、そのバランスがうまくとれる貴重な人だったような気がする。
プロフィールの1945年のところには、こう書かれている。
<終戦により中国大陸から、就職で送り出した卒業生たちが引き揚げてきて、その世話を考え、自宅(東伏見)で設計の実務を始める。これが佐藤武夫設計事務所の発足の原点となる>。
沿革を見ても、たしかに1945年から事務所が始まっている。
佐藤武夫の作品には、才能にとどまらず、こうした人間の幅や優しさみたいなものまでが具現化しているような気がする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90...
<佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は日本の建築家。建築音響学の先駆者>。
私が佐藤武夫の名前を初めて知ったのは、「日本におけるDOCOMOMO100選」だった。
日本におけるDOCOMOMO100選
http://www.docomomojapan.com/docomomo100.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5...
これはDOCOMOMO Japanという団体が、日本の近代建築から名作を100個選んだものだ。
このなかに、私の故郷である北海道旭川市の「旭川市庁舎」が入っていた。
旭川市役所の印象的な建物は、旭川市民なら誰でも知っている。適度に目立ち、シンボル的で、しかしそれほど押しつけがましくなく、品があって、やさしい感じの建物だ。たしかにいま考えると、昭和のモダニズムという感じがする。
しかし子供の頃の私は建築のことなどまったくわからなかったし、高校まで旭川で過ごし、旭川市役所の近くをしょっちゅう通っていたのに、その建物を眺めたことなど一度もなかった。
その建物が、日本近代建築のベスト100に選ばれるほどの名作だったらしいことを知り、驚いた。そして、それを設計した佐藤武夫という建築家は、あの早稲田大学の大隈講堂も手がけた人だという。
(2007年に改装されたとのこと これは改装前)
旭川市庁舎と大隈講堂では、知名度では大きな開きがあるが、たしかに共通のテイストがあると思える。
株式会社佐藤総合計画 - 佐藤武夫のプロフィール
http://www.axscom.co.jp/stg/profile/index.php
この佐藤総合計画は佐藤武夫が創業した会社で、いまでも存続・発展しているようだ。ここに載っている佐藤武夫のプロフィールを読んで、私はますます佐藤武夫に興味を持った。
このプロフィールによると、佐藤武夫は軍人だった父親の転勤にあわせて、幼少の頃から仙台、京都、名古屋、旭川、岩国などを転々としたらしい。『世界の建築様式』という本に出会って、志望を医者から建築に変え、早稲田大学に入学。早稲田を選んだのは建築雑誌の影響だったという。在学中から、当時早稲田の教授だった佐藤功一の事務所で業務にも携わり、デザインの才能を評価されて、卒業後ただちに助教授に任命、その後佐藤功一が早稲田大学の大隈講堂を手がけることになり、実質的にその設計を担当する。
ここまでのキャリアでも相当なものだと思うが、大隈講堂の設計にあたり、坪内逍遥宅へ出入りして演劇を研究、さらに建築における音響の問題にぶちあたる。これを研究して、日光東照宮の「鳴竜現象」も解明、日本の建築音響学の先駆者になった。
参考:早稲田大学・佐藤武夫による建築音響の研究
http://www.acoust.rise.waseda.ac.jp/publications/happyou/jabs/jabs-tokita-2006.pdf
1938年には早稲田大学教授となり、建築計画学、設計製図、音響学を担当、戦後はその職を辞し、設計事務所の実務に専念したという。沿革によると、1954年に自分の事務所を株式会社化し、旭川市庁舎(1958年)はその後の作品のようだ。
旭川市庁舎や大隈講堂のような、あたたかくもモダンな建物をつくり、かつ建築音響でも大きな業績を上げ、早稲田大学教授の職を辞して実務に専念、その後も発展しつづける会社を作ったという佐藤武夫のキャリアは、日本の建築家としてはやや異色ではないだろうか。
私は特に建築に詳しいわけではないが、建築という仕事は、デザインや技術、人間的・社会的要求、ビジネス的側面など、さまざまな要素・制約のバランスのもとに成り立っていることは想像できる。
佐藤武夫のキャリアを読み、あらためてその作品写真を見て、旭川市庁舎のたたずまいを思い出してみると、佐藤武夫はきっと、そのバランスがうまくとれる貴重な人だったような気がする。
プロフィールの1945年のところには、こう書かれている。
<終戦により中国大陸から、就職で送り出した卒業生たちが引き揚げてきて、その世話を考え、自宅(東伏見)で設計の実務を始める。これが佐藤武夫設計事務所の発足の原点となる>。
沿革を見ても、たしかに1945年から事務所が始まっている。
佐藤武夫の作品には、才能にとどまらず、こうした人間の幅や優しさみたいなものまでが具現化しているような気がする。