2008.06.28
「アメ彦」こと浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の激動すぎる人生
ウィキペディアで日本の昔の新聞のことを調べていて、幕末~明治に生きた浜田彦蔵という人のことを知った。

ウィキペディア - 浜田彦蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%BD%A6%E8%94%B5

<浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は、幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)。幼名は彦太郎。帰国後の通称はアメ彦>。

浜田彦蔵は、日本で初めて日本語の新聞を発行した。それだけでも歴史に残る偉業だが、その人生の激動ぶりがすごい。なぜ「アメ彦」なのかも、読み進めていくとわかる。

<播磨国加古郡阿閇村古宮(現兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。幼い頃に父を、嘉永4年(1851年)、13歳の時に母を亡くす。その直後に義父の船に乗って海に出て、途中で知人の船・栄力丸に乗り換えて江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に紀伊半島の大王岬沖で難破。2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月12日)に南鳥島付近でアメリカの商船オークランド号に発見され、救助される>。

子供の頃に両親をなくし、乗った船が難破して2か月太平洋を漂流(!)し、アメリカの商船に助けられる。これだけでもう、何人分もの激動人生だと思うが、これがまだほんの序章なのだ。

<その後、救助してくれた船員たちと共にサンフランシスコに滞在。アメリカ政府より日本へ帰還させるよう命令が出て、嘉永5年3月13日(1852年5月1日)にサンフランシスコを出発し、5月20日(7月7日)に香港に到着する。そこから、東インド艦隊長官ペリーの船に同乗し、日本へ帰還するはずだった>。

救助してくれた船でアメリカに渡りサンフランシスコに滞在、その後香港に送られ、あのペリー(!)といっしょに日本に行くはずだった。1852年って、ペリーが浦賀に来る前年だから、ペリーの船に乗せられていっしょに来ていた可能性があったわけだ。

<しかし、ペリーがなかなか来ず、その間に香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民の一人)の体験談を聞き、自分達がアメリカの外交カードにされるとの懸念から、10月にアメリカに戻る>。

これはすごいエピソードだ。香港で出会った「力松」という日本人がモリソン号事件の漂流民というのもすごいが、その体験談から、自分が<アメリカの外交カードにされる>ことを悟って、日本の不利にならないようにアメリカに戻ったわけだ。このとき、浜田彦蔵は歴史を少し動かしたのかもしれない。

英語ページの解説では、このとき浜田彦蔵がアメリカに戻った理由について、次のように書かれている。

<However, Heco met an American interpreter who asked him to return to the U.S. with him and learn English. Then Heco could return to Japan with important language skills when the country was open for trade. Heco accepted the offer and arrived in San Francisco in June 1853>.

(大意:しかし、ヒコはアメリカ人の通訳と出会った。その通訳は、いっしょにアメリカに戻って英語を学ぶよう、ヒコに頼んだ。そうすれば日本が開国したときに、重要な語学スキルをもって日本に帰れるだろう、と。ヒコはその誘いを受け、1853年の6月にサンフランシスコに到着した。)

おそらく動機としては、ペリーの船に乗って自分が「外交カード」になってしまうのを避けつつ、ここにあるように、日本開国に備えてアメリカでさらに英語を学んでおくという、その両方だったのだろう。

<サンフランシスコに帰った後は、下宿屋の下働きなどをしていたが、税関長のサンダースに引き取られた。その後、ニューヨークに赴き、嘉永6年8月13日(1853年9月15日)には日本人として初めてアメリカ大統領(当時はフランクリン・ピアース)と会見した。また、サンダースにより、ボルチモアのミッション・スクールで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。安政4年11月25日(1858年1月9日)にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した>。

税関長に気に入られ、日本人として初めてアメリカ大統領と会見し、ミッション・スクールで学校教育を受け、カトリックの洗礼も受けたというんだから、そうとう有能だったことは間違いない。英語ページの解説では、1857年にカリフォルニア上院議員William M. Gwinに請われて、秘書としていっしょにワシントンに行き、その翌年1858年には日本人として初めてアメリカに帰化したとある。

<そして安政5年(1858年)、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り、日本への望郷の念が強まった彦蔵は、キリシタンとなった今ではそのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。その翌年の安政6年(1859年)に駐日公使ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し、9年ぶりの帰国を果たした>。

アメリカに帰化した理由は、<キリシタンとなった今ではそのまま帰国することはできなかった>からだったのだ。それにしても、ペリーが日本に来た1853年に香港からアメリカに渡って、大統領と会見したり、上院議員の秘書になるほど活躍してアメリカに帰化し、日本が開国した1858年の翌年に帰国したというんだから、なんという有能さと激動ぶりだろう。

<翌年2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。しかし当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じて文久元年9月17日(1861年10月20日)にアメリカに戻った>。

なんと、尊皇攘夷運動を避けて、再度アメリカに戻ったのだ。さぞや無念だっただろうが、そこでアメリカに行けるのだからすごい。

<再度アメリカに帰った後は、文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた>。

3代続けて大統領に会見し、今度はリンカーンだ。そしてまた日本に戻り、通訳を経て、こんどは商売を始める。

<翌元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した>。

ここで発行した「海外新聞」(当初は「新聞誌」という名だったらしい)が、<日本で最初の日本語の新聞>となったわけだ。早稲田大学図書館にその現物が収蔵されているようだ。

早稲田大学図書館 - 海外新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_7269/

そして、浜田彦蔵の人生も後半に入る。明治を迎えた日本でさまざまな要職についたり、経営に励んだようだ。

<慶応4年8月7日(1868年9月22日)、18年ぶりに帰郷。明治2年(1869年)6月には大阪造幣局の創設に尽力した。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり、茶の輸出、精米所経営などを行なった>。

そして激動だった浜田彦蔵の人生も、終わりを迎える。

<明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅で死去。享年61。日本人に戻る法的根拠が無かったことから、死後、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。尚、国籍法が制定されたのは、明治32年(1899年)のことであった>。

死後、<外国人として青山の外国人墓地に葬られた>というのは、仕方がなかったとはいえ、少し悲しい気もする。キリスト教の洗礼を受け、アメリカに帰化して、通称「アメ彦」だったとしても、きっと「心は日本人」だったはずだ。

幕末~明治にこんな面白い人がいたなんて、知らなかった。いくらこの時代が激動だったといっても、これほど激動な人生もなかなかないと思う。