2009.05.08
極論の効用
極論は、「考えるきっかけ」をくれる。だから価値がある。

誰でも言いそうな無難な主張は、間違っていないかもしれないが、価値がない。

どんな人であっても、何についても無難な意見しか持っていない、ということはないと思う。誰だって、「心のうちに、極論を隠し持っている」はずなのだ。

しかし、それを言うと叩かれたり、間違っていて恥をかくのが怖いので、普通は言わない。

その意味で、わざわざ極論を言う人は「リスクテイカー」だ。

それは間違っているかもしれないし、ボコボコに叩かれるかもしれないが、少なくとも無難な意見よりは、「考えるきっかけ」を与えられる。一歩踏み出した見方を示すことで、「常識を相対化」できるのだ。

ネットでは、極論がボコボコに叩かれているのをよく見かける。私はそれがどんなに間違っていても、極論を言う人の勇気ある姿勢を支持したい。ただの無難な意見よりも、極論は読む人に考えるきっかけを与え、意見の多様性を生み出すことに貢献している。

何かを生み出すのはつねに、叩かれたり、失敗するのを恐れない、リスクテイカーだ。成功するか失敗するか、正しいか間違っているか、それが重要なのではない。リスクをとってチャレンジし、実行・実践することが重要なのだ。リスクテイカーは、つねに人より先にやり、何度でもやる。だから、いつか成功する。

私の見たところ、多くの場合、極論を言う人のほうが、その極論を叩いている人よりも、理解度が高いことが多いように思う。これはおそらく、極論を言う人のほうが一般によく勉強していて、実践の繰り返しによって、知識や見解が鍛えられているからだと思う。勉強して、実践で鍛えられているがゆえに、凡庸な意見を超えられるのだろう。

極論はしばしば、はてなブックマークなどで叩かれたり、炎上したりする。そのように反発を招くことが、必ずしも真実性や価値を保証するわけではないが、真実を述べることは、しばしば反発を招くことも確かだ。歴史を見れば、常識や権威に反する真実を述べた者が、迫害されたり、処刑されている例が少なくない。身近な例でも、会社でヘタに正しい指摘をしたために、逆に冷遇されてしまうといったことはよくある。

極論が反発を招くのは、それが常識に収まらず、常識をひっくり返したり、常識を引き裂いたりするので、常識に安住していた人に「痛み」を引き起こすからだ。

いっぽう、もともと常識を疑っていた人、常識に居心地悪さを感じていた人は、その極論にむしろ共感を覚えるかもしれない。

現実社会は、問題に満ちている。そして「常識」というものも、その現実社会に生きる人間の「物の見方」である以上、現実社会のあり方に制約されざるをえない。よって「常識」も、現実社会と同様に問題だらけなのだ。

極論は、その常識を揺さぶってくれる。正しいか間違っているかではなくて、常識を揺さぶること、考えるきっかけを与え、あたらしい視点を提供することに、極論の意味がある。