2011.05.31
モホリ=ナギ 「芸術は感覚の研磨機である」
芸術は役に立つのか、役に立たないのか。役に立つとすれば、何の役に立つのか。

この疑問に対する、私の知るかぎりベストの回答は、バウハウスの教授でもあったアーティスト、モホリ=ナギ(「モホイ=ナジ」とも表記)によるものだ。モホリ=ナギは、<芸術は感覚の研磨機である>とした。

この<芸術は感覚の研磨機である>という一節を含む、モホリ=ナギの著作『ザ・ニュー・ヴィジョン *ある芸術家の要約』(大森忠行訳 1967年 ダヴィッド社) は、私がもっとも好きな本のひとつだ。

この『ザ・ニュー・ヴィジョン』について、いまから10数年前、「ホットワイアード」の「CAVE」というコーナーに書いた紹介文を以下に再掲載する。

---

テクノロジーによって
原始的な人間性をとり戻すヴィジョン
(初出 ホットワイアード「CAVE」1998年6月)
http://hotwired.goo.ne.jp/cave/author/a35001.html

L・モホリ=ナギ
『ザ・ニュー・ヴィジョン *ある芸術家の要約』(大森忠行訳 1967年 ダヴィッド社)


バウハウスといえば、いかにもモダンな、その直角的なスタイルがまず連想されるだろう。しかし、そうしたスタイルを支えたバウハウスの理念は、あまり知られていないのではないだろうか。

バウハウスの主力教授として活躍し、またのちにシカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス)を設立したモホリ=ナギは、バウハウスの理念を体現した人物のひとりである。カメラを使わない写真「フォトグラム」、写真を切り貼りする「フォトモンタージュ」、光の彫刻をうみだす「ライト・スペース・モデュレイター」、それを撮影した映画『黒・白・グレー』などで知られ、絵画、写真、彫刻、デザインなど広範囲にわたって先駆的な制作活動をつづけたモホリ=ナギは、教育者としてもきわめて先駆的だった。

モホリ=ナギの思想・教育理念は、1928年(改訂1949年)の『ザ・ニュー・ヴィジョン』(『材料から建築へ』)などの著作に見ることができる。バウハウスの創設者、ワルター・グロピウスが「モダン・デザインの標準文法」と評したこの著作は、モホリ=ナギの思想書であると同時に、バウハウスのカリキュラムを伝える一種の教育書でもあり、そのきわめて先駆的な内容は、どんな新刊よりもむしろ斬新なくらいである。

<芸術は感覚の研磨機であり、観察力や理性、そして感受性を強くする>

というのがモホリ=ナギの芸術観で、芸術は一部のアーティストのものではなく万人のためのものであり、<才能はだれにもある>とした。

また、専門分野に閉じ込められた現代人のあり方を批判し、活動の全的ひろがりをそなえていた未開人を手本として、<未来は全的人間を要求する>とした。

この全的な方向性は人間の<生物学的必要>であるにもかかわらず、人間ではなく生産が目的になってしまった社会の「需要」がそれを抑圧している。

<伝統と権威の力におびえている現代人、それは、もはや他の経験分野に入って、あえて危険を冒そうとはしない一種の専門職業家である。他の分野での直接経験がなく、自信を失っている>。

ここから脱出するには、考え方の転換はもちろん必要だが、「技術」がその助けになる。<技術を通じて、人間は自由になれるのだ>。

こうしたモホリ=ナギの主張は明らかに、のちのバックミンスター・フラーの思想などにも通じるものだ。文明やテクノロジー自体を否定するのではなく、その先の未来に、ある意味では原始的な人間性をとり戻そうとするヴィジョン。こうしたヴィジョン、活動の全的なひろがりや自主性を重視する理念を軸に、バウハウスの活動を見直してみる必要があるのではないか。

昨年から今年にかけて、川崎市市民ミュージアムの「バウハウスの写真」、セゾン美術館の「デ・スティル」展など、モホリ=ナギ周辺の再評価が高まってきている。バウハウス、さらにはそれを核とするモダニズム総体が、スタイルだけでなく人間性という観点からも再考され、21世紀に「最適化」されてよみがえるとき、モホリ=ナギはまちがいなく、そのキーパーソンのひとりになるだろう。


桜井通開
1998.06.16