2004.02.20
現実仮想空間
ringo's weblogの2/19で、「トランクにマージされないコードを書くのは萎える」というタイトルで、仮想空間について書かれている。

実際の世界のデータを反映させるタイプの情報ツールは、究極的には mirror worlds を目指すことになる

結局、私が mirror worlds 法に燃えられないのは、「自分がやった事」があくまでブランチ上にしか乗らないからかもしれない

ここで中嶋さんは、現実をなぞるかたちの仮想空間を「mirror worlds的仮想空間」、まったく現実に捉われない仮想空間を「ゲーム的仮想空間」と分類し、後者でないと燃えない、としている。

これには大いに刺激されたので、私の考えたことをちょっと書いてみたい。

「mirror worlds的仮想空間」と「ゲーム的仮想空間」という対比は、小説や映画での古典的な言い回しを使えば、「ドキュメンタリー」と「フィクション」という違いになるかもしれない。

ごく普通に言えば、この2分法はまったく自然である。何が現実で何が現実でないかは、通常明らかである。

しかしよりミクロに見れば、「現実の輪郭」はそれほど明らかではない、と私は考える。

例えばこのmojix.orgというサイトは、私という人間のある側面をあらわしているという意味では、「現実」とも言える。

しかし同時に、これはひとつの作品、表現、創作でもあり、私という人間そのものではなく、単に私が作ったものに過ぎない。

このサイトを作ることや、この1個のエントリを書くことで、私は現実を生み出しているのか、それとも創作を生み出しているのか。

印象派やキュビズムは、現実をそのまま模写していない。その意味では創作だが、しかしそれは現実のある側面を切り取っている。

いわゆる言語に関しては、「真」がどうやって決まるのかが分析哲学などで研究され、それなりに成果が出ている。しかし図や絵、映像、空間などになると、その現実性や「真」の根拠はよくわからない。そもそも、そういうものに「現実」や「真」を考えることに意味があるかどうかもわからない。

「mirror worlds的仮想空間」では燃えないという中嶋さんは、一見したところ、「ゲーム的仮想空間」のほうが好きなように見える。しかし、<トランク(本流)にマージされる>ほうが燃えるというのは、「現実」というトランク(本流)を自分の手で変革したいということでもあるように思う。

ジョン・レノンの「イマジン」は創作だが、並みの現実よりもはるかに、人の心にとどき、人を動かし、現実を変える力を持っている。

インターネットやWebは、物理的な世界ではないという意味では、「バーチャル」な仮想空間である。しかしいまや、インターネットやWebはまさに「現実」でもあることを疑う人はいないだろう。それは「従来の現実」に接続された、「新しい現実」なのだ。

中嶋さんが出した「mirror worlds的仮想空間」と「ゲーム的仮想空間」の2つのあいだに、私は「現実仮想空間」という3つめの分類を差し込みたい。

「現実仮想空間」は、現実のコピー(ミラー)でもなく、逆に純然たるフィクションというのでもない、いわば「図」のようなポジションにある。具体的には、「Web」がまさにそれだ。

「Web」がなんなのか、私はずっと考えてきた。それは雑誌のようでもあり、建築のようでもある。Webは雑誌にも、建築にも、あるいはテレビなどにも、それぞれ似ている点がある。しかしやはり、Webはきわめて独自のものだと言うしかない気がしている。

mojix.orgが現実なのか、創作なのか、それはいったい「どこにある」のかの捉えがたさは、「Web」という新しい存在、その「現実仮想空間」的なポジションに由来していると思う。

私は「ゲーム」というものについて、ゲームにまったく詳しくないにもかかわらず、何度か書いてきた。それはゲームの中に「Webのような可能性」「新しいWeb」を見ているからだと思う。

ゲームが気になるにもかかわらず、それでも私がなかなかゲームに手を出さないのは、私の重い「ゲーム腰」を上げさせる、興味の臨界点を超えさせてくれるゲームがまだ視野に入ってこないからだ(もう存在しているのに、詳しくないので私が知らないだけというのもあるだろう)。

以前、中嶋さんがいま作っているGumonjiというゲームのデモを見る機会があったが、まさに私がゲームに求めているものがあったような、強烈なインパクトを受けた(リンクをはれる紹介ページなどがないのが残念。中嶋さんのブログから想像してください)。

中嶋さんがやろうとしているのは、私の基準では、まさに「現実仮想空間」型のゲームであるように見える。中嶋さんは、

プレイヤーが思いついたことを自由にやってみて、それが仮想空間の歴史に記録され、ほかのみんなに影響を与え続ける

ことを重視すると書いている。これは仮想空間だけの話ではなく、「現実」というのもまさにそういうものだと思う。世界自体がゲームであり、人間はそのプレイヤーで、それが本や写真、映像に記録されていく。

中嶋さんが「仮想空間」と書くものが、私にはむしろ「現実」に感じられるのは、もしかすると私の「現実観」が、(カルナップ可能世界意味論の意味で)可能世界っぽいからかもしれない。

つまり私の場合、現実と全面的に一致していなくても、「現実と同じルール」で動いている世界(可能世界)の範囲までを、「現実っぽい」と考えているのだ。

(以上、あまりまとまらない記述だが、無理にまとめることをせず、ひとつの思考のメモとして、このまま残しておくことにする)