1・10・100 / コルビュジエ
気がつくと、まるまる1か月も更新していなかった。
仕事が忙しいから、といえばそうなのだが、これまでだって、いつも多かれ少なかれ忙しかった。
またどんなに忙しくても、1行や2行のエントリを書く時間がないわけではない。毎日のようにネットでニュースを見たりしているし、公開用ではない自分の日記のほうは、毎日つけている。
なんで1か月も更新していなかったか考えると、実際それなりに忙しかったとともに、「とにかく更新しなきゃ」という義務感がちょっと薄れたんじゃないか、と思っている。
以前、ソニー中村研究所の中村末広氏が書いた「経営は「1・10・100」」という本を買った。
タイトルになっている「1・10・100」というのは、
1 アイディアなどを思いつくこと
2 それをモノとして作り上げること
3 それを世の中に受け入れてもらうこと
の3ステップについて、それにかかる労力や手間、時間などを数値化したものだ(中村氏の論旨を私の言葉で言い換えている)。
考えたり、思いつくだけの段階から、それを実際かたちにするまでにどれくらい距離があるかというのは、ここ数年、私も折に触れて考えてきたテーマだった(「「できるはずだ」 と 「ほらどうだ」 のあいだには天地の開きがある」「構想、設計、実現」)。そしていろいろな機会に、その距離を実際に「思い知る」ことも少なくなかった。
その距離を、中村氏は「1・10・100」と定量的に言い切った。思いつきをかたちにするのは、思いつくことの10倍たいへんで、さらにそれを世の中に受け入れさせるのは、その10倍たいへんなのだ(「SONY HISTORY」を思い出した)。
この「1・10・100」という定量化は、私にとって、とても納得できる数字だ。そして、いまのソニーを代表する1人がそう言うのだから、説得力もある。
「これはいい」というアイディアを思いついても、それが世に受け入れられるまで100倍かかる。その100倍の距離を踏破するまでに、他のアイディアを思いついても、そちらには着手できない。あるいは、そちらに乗り換えれば、またゼロから始めることになる。
ましてや、いいアイディアでもなんでもない、ただの記録や印象なんかをブログに書いたりして、なんになるのだろう。「0.1」とか「0.01」くらいのものをたくさん書いたところで、ただ時間の無駄使いじゃないだろうか。
そんなことを考えたりした。自分がブログを書くのは、なんのためなんだろう。何かの達成に役立っているのだろうか。それとも、ただのヒマ潰しだろうか。
最近、ネットにあるコンテンツは「薄い」と感じることが多くなってきた。もちろん、自分の書くものも含めて。「テレビ、つまらんなあ」と思いつつ、テレビを見ているような自己嫌悪、そんな感じ。更新がしばらく止まってしまったのは、それもあった気がする。
先日、ル・コルビュジエの「ユルバニスム」という本を買った。コルビュジエはずっと名前だけ知っていて、本を読んだことはなかった。
冒頭にはこんな一節がある。
都市!
それは、人間による自然の把握である。それは、自然にたいする人間的な活動、保護と仕事の人間的な器官である。それはひとつの創造である。
だいたいこんな調子で、私にとっては、かつて大好きだった初期ル・クレジオを思わせる、明晰な世界観が凝縮したような見事な文体だ。
私は子供の頃から、書いたり、しゃべるのが好きだった。自然と、それが最初の仕事になった。
その後、コンピュータとインターネットに出会って、夢中になり、仕事を変えた。「ものをつくる」「ものを動かす」というのは、私にとって初めてのことだった。それまでも雑誌を作ったりはしていたが、雑誌は「もの」というよりも、書いたものを束ねたものだ。
私はいまでも、技術というよりはやはり、コンテンツの人間だと思う。ITの世界に身を置いているいまでも、「ものをつくる」タイプというよりは、基本的には書いたり、しゃべったりするタイプで、ついでにものを作っている、という気がする。
しかしITの世界で5年くらい過ごした結果、ソニーの中村氏の言う「1」と「10」の差は、なんとなくわかるようになってきた気がする。ただ書いたり、しゃべったりするのと、ものを作ったり、それで世の中を変えることの、「重み」の違いを。
いまでも初期ル・クレジオの文体はカッコいいと思うが、いまの自分には、小説家や詩人の言葉よりも、建築家としても圧倒的な実績を残したル・コルビュジエの言葉が、身にしみる。「1」ではなく、「10」や「100」の厚みがそこにある。
書くことはつねに「1」だ。
そして、すべてはそこから始まる。
しかし少なくとも、「10」や「100」の重みをわかったうえで、できるだけそこを志向しながら、「1」を書きたいと思う。
年がら年中、凝縮された、中身のあることばかり書くわけにもいかない。しかし「ネットにあるコンテンツは薄い」という、いまの自分がどうしようもなく感じる印象は、やっぱり正しい気がするのだ。
もちろん、ネットにも中身のあるものはいくらでもあるし、逆に本や雑誌で、中身のないものだっていくらでもある。(そんなことは、言うまでもない)
しかしメディアの総体として、本に書かれたコンテンツの資産には、すごいものがある。ネットはまだ技術が先行していて、コンテンツが少ない。それは歴史が浅いからかもしれない。
「自分が何をやりたいのか、よくわからない」という人がときどきいる。信じられない。私はやりたいことがありすぎて困る。誰か時間が余っている人がいたら、私に欲しいと思う。
しかし「やりたいことがありすぎる」のは、ほんとうにやりたいことがわかっていないのかもしれない。少なくとも、絞り込みができていないのかもしれない、とも思う。
いろいろやってきて、自分の「天命」みたいなものに、少しずつ近づいているような気はする。しかし、まだそこに辿り着いていない。
仕事が忙しいから、といえばそうなのだが、これまでだって、いつも多かれ少なかれ忙しかった。
またどんなに忙しくても、1行や2行のエントリを書く時間がないわけではない。毎日のようにネットでニュースを見たりしているし、公開用ではない自分の日記のほうは、毎日つけている。
なんで1か月も更新していなかったか考えると、実際それなりに忙しかったとともに、「とにかく更新しなきゃ」という義務感がちょっと薄れたんじゃないか、と思っている。
以前、ソニー中村研究所の中村末広氏が書いた「経営は「1・10・100」」という本を買った。
タイトルになっている「1・10・100」というのは、
1 アイディアなどを思いつくこと
2 それをモノとして作り上げること
3 それを世の中に受け入れてもらうこと
の3ステップについて、それにかかる労力や手間、時間などを数値化したものだ(中村氏の論旨を私の言葉で言い換えている)。
考えたり、思いつくだけの段階から、それを実際かたちにするまでにどれくらい距離があるかというのは、ここ数年、私も折に触れて考えてきたテーマだった(「「できるはずだ」 と 「ほらどうだ」 のあいだには天地の開きがある」「構想、設計、実現」)。そしていろいろな機会に、その距離を実際に「思い知る」ことも少なくなかった。
その距離を、中村氏は「1・10・100」と定量的に言い切った。思いつきをかたちにするのは、思いつくことの10倍たいへんで、さらにそれを世の中に受け入れさせるのは、その10倍たいへんなのだ(「SONY HISTORY」を思い出した)。
この「1・10・100」という定量化は、私にとって、とても納得できる数字だ。そして、いまのソニーを代表する1人がそう言うのだから、説得力もある。
「これはいい」というアイディアを思いついても、それが世に受け入れられるまで100倍かかる。その100倍の距離を踏破するまでに、他のアイディアを思いついても、そちらには着手できない。あるいは、そちらに乗り換えれば、またゼロから始めることになる。
ましてや、いいアイディアでもなんでもない、ただの記録や印象なんかをブログに書いたりして、なんになるのだろう。「0.1」とか「0.01」くらいのものをたくさん書いたところで、ただ時間の無駄使いじゃないだろうか。
そんなことを考えたりした。自分がブログを書くのは、なんのためなんだろう。何かの達成に役立っているのだろうか。それとも、ただのヒマ潰しだろうか。
最近、ネットにあるコンテンツは「薄い」と感じることが多くなってきた。もちろん、自分の書くものも含めて。「テレビ、つまらんなあ」と思いつつ、テレビを見ているような自己嫌悪、そんな感じ。更新がしばらく止まってしまったのは、それもあった気がする。
先日、ル・コルビュジエの「ユルバニスム」という本を買った。コルビュジエはずっと名前だけ知っていて、本を読んだことはなかった。
冒頭にはこんな一節がある。
都市!
それは、人間による自然の把握である。それは、自然にたいする人間的な活動、保護と仕事の人間的な器官である。それはひとつの創造である。
だいたいこんな調子で、私にとっては、かつて大好きだった初期ル・クレジオを思わせる、明晰な世界観が凝縮したような見事な文体だ。
私は子供の頃から、書いたり、しゃべるのが好きだった。自然と、それが最初の仕事になった。
その後、コンピュータとインターネットに出会って、夢中になり、仕事を変えた。「ものをつくる」「ものを動かす」というのは、私にとって初めてのことだった。それまでも雑誌を作ったりはしていたが、雑誌は「もの」というよりも、書いたものを束ねたものだ。
私はいまでも、技術というよりはやはり、コンテンツの人間だと思う。ITの世界に身を置いているいまでも、「ものをつくる」タイプというよりは、基本的には書いたり、しゃべったりするタイプで、ついでにものを作っている、という気がする。
しかしITの世界で5年くらい過ごした結果、ソニーの中村氏の言う「1」と「10」の差は、なんとなくわかるようになってきた気がする。ただ書いたり、しゃべったりするのと、ものを作ったり、それで世の中を変えることの、「重み」の違いを。
いまでも初期ル・クレジオの文体はカッコいいと思うが、いまの自分には、小説家や詩人の言葉よりも、建築家としても圧倒的な実績を残したル・コルビュジエの言葉が、身にしみる。「1」ではなく、「10」や「100」の厚みがそこにある。
書くことはつねに「1」だ。
そして、すべてはそこから始まる。
しかし少なくとも、「10」や「100」の重みをわかったうえで、できるだけそこを志向しながら、「1」を書きたいと思う。
年がら年中、凝縮された、中身のあることばかり書くわけにもいかない。しかし「ネットにあるコンテンツは薄い」という、いまの自分がどうしようもなく感じる印象は、やっぱり正しい気がするのだ。
もちろん、ネットにも中身のあるものはいくらでもあるし、逆に本や雑誌で、中身のないものだっていくらでもある。(そんなことは、言うまでもない)
しかしメディアの総体として、本に書かれたコンテンツの資産には、すごいものがある。ネットはまだ技術が先行していて、コンテンツが少ない。それは歴史が浅いからかもしれない。
「自分が何をやりたいのか、よくわからない」という人がときどきいる。信じられない。私はやりたいことがありすぎて困る。誰か時間が余っている人がいたら、私に欲しいと思う。
しかし「やりたいことがありすぎる」のは、ほんとうにやりたいことがわかっていないのかもしれない。少なくとも、絞り込みができていないのかもしれない、とも思う。
いろいろやってきて、自分の「天命」みたいなものに、少しずつ近づいているような気はする。しかし、まだそこに辿り着いていない。