漢字の可能性
去年の年末くらいから、マルチリンガル熱が一向におさまらない。語学の本や辞書ばかり買っている。
まだいろいろな言語を「眺めている」段階で、意味はわからない。今年の前半くらいまでには、せめて字面を見たときに、どの言語かわかるようになりたい。
いろいろな言語を眺めていて気づいたことのひとつに、「漢字」というものがいかに特殊か、というのがある。
多くの言語が、いわゆる「アルファベット」を使うようだ。ABCはもちろん、ロシア語のキリル文字や、アラビア語のアラビア文字なども広い意味でのアルファベットで、たかだか数十個の表音文字である。
これに対して、中国語や日本語で使う漢字は、ご存知の通り表意文字だ。1つ1つが意味を持った文字が、何千・何万もある(正確にはおそらくもっと多いだろう)。
私の知り合いの外人を考えてみても、日本語での会話は問題ないのに、漢字はほとんど読めない、というパターンが多い気がする。非漢字圏の外人が日本語を勉強する場合、ひらがな・カタカナまでは比較的かんたんに行けても、漢字のところで大きなカベがあるようだ。日本人でさえ、漢字は小中学校の10年近くかけてちょっとずつ学んでいくのだから、無理もないと思う。
それほど覚えるのがたいへんな漢字を、なぜ日本人はわざわざ覚える必要があるのだろうか。もしほんとうに漢字を使うメリットがなければ、いくら年長者に説教されようとも、わたしたちはとっくに漢字を使うのをやめているだろう。しかし、漢字は滅びていない。明治の文豪や、昭和の知識人よりは漢字を使っていないにせよ、漢字はなくなっていない。
またコンピュータ時代に入ってから、アルファベットに対して、漢字の扱いにくさはますます浮き彫りになった。漢字の入力が面倒くさいのは、キーがもともとアルファベットだということももちろんあるにせよ、文字数自体が絶対的に多いので、入力体系をいくら工夫しても、多かれ少なかれ面倒くさいままだろう。
結局のところ漢字とは、手でも、コンピュータでも、「書くのがたいへんな文字」ということになると思う。ではなぜ、そんな面倒なことをわざわざするかというと、「読むのが早い」からだ。
以前、誰かが「漢字はアイコンだ」と書いていたのを読んだことがある。もともと象形文字から来ているのだから、それも当然かもしれない。漢字は「記号化された絵」なのだ。
いま中国語をちょっとずつ勉強しているが、英語やフランス語などに比べて、「ヒアリング」がむずかしい。発音の難しさもあるが、漢字ベースで同音異義語が多いので、「聴くだけで識別する」のがむずかしいのだ。
中国語や日本語は、どちらかといえば「見るための言語」なんだと思う。漢字という「記号化された絵」を使う以上、聴くよりも見たほうが早い。
アルファベットに比べて書くのはたいへんだが、読みとるのは早いという漢字の特性は、もしかすると、それを使う人間を、情報の発信者よりも受信者にしやすいかもしれない。また、聴覚より視覚に比重がある言語という側面では、「しゃべる人」よりも「書く人」にしやすいかもしれない。
そんなことも含めて、漢字というもの、また漢字という表意文字と、ひらがな・カタカナという表音文字をバランスよく使い分ける日本語というものに、あらためて興味を感じている。
言語はもっとも身近な「道具」であり、それによってコミュニケーションが成立する媒体であると同時に、それ自体ではなく別のものを指す「記号」である以上、もっとも古くからある「バーチャル」な存在でもある。
わたしたちは四六時中、言語につつまれて生きている以上、どんな言語につつまれているかによって、どんな人間になるかが変わってきても不思議はない。
以前の私は、英語が母国語だったら良かったのに、と思っていたこともあった。しかしいまの私は、日本語が母国語で良かったと思う。たくさんの言語をマスターしようとする場合、日本語を知っているというのは、出発点としては悪くない気がするのだ。
まだいろいろな言語を「眺めている」段階で、意味はわからない。今年の前半くらいまでには、せめて字面を見たときに、どの言語かわかるようになりたい。
いろいろな言語を眺めていて気づいたことのひとつに、「漢字」というものがいかに特殊か、というのがある。
多くの言語が、いわゆる「アルファベット」を使うようだ。ABCはもちろん、ロシア語のキリル文字や、アラビア語のアラビア文字なども広い意味でのアルファベットで、たかだか数十個の表音文字である。
これに対して、中国語や日本語で使う漢字は、ご存知の通り表意文字だ。1つ1つが意味を持った文字が、何千・何万もある(正確にはおそらくもっと多いだろう)。
私の知り合いの外人を考えてみても、日本語での会話は問題ないのに、漢字はほとんど読めない、というパターンが多い気がする。非漢字圏の外人が日本語を勉強する場合、ひらがな・カタカナまでは比較的かんたんに行けても、漢字のところで大きなカベがあるようだ。日本人でさえ、漢字は小中学校の10年近くかけてちょっとずつ学んでいくのだから、無理もないと思う。
それほど覚えるのがたいへんな漢字を、なぜ日本人はわざわざ覚える必要があるのだろうか。もしほんとうに漢字を使うメリットがなければ、いくら年長者に説教されようとも、わたしたちはとっくに漢字を使うのをやめているだろう。しかし、漢字は滅びていない。明治の文豪や、昭和の知識人よりは漢字を使っていないにせよ、漢字はなくなっていない。
またコンピュータ時代に入ってから、アルファベットに対して、漢字の扱いにくさはますます浮き彫りになった。漢字の入力が面倒くさいのは、キーがもともとアルファベットだということももちろんあるにせよ、文字数自体が絶対的に多いので、入力体系をいくら工夫しても、多かれ少なかれ面倒くさいままだろう。
結局のところ漢字とは、手でも、コンピュータでも、「書くのがたいへんな文字」ということになると思う。ではなぜ、そんな面倒なことをわざわざするかというと、「読むのが早い」からだ。
以前、誰かが「漢字はアイコンだ」と書いていたのを読んだことがある。もともと象形文字から来ているのだから、それも当然かもしれない。漢字は「記号化された絵」なのだ。
いま中国語をちょっとずつ勉強しているが、英語やフランス語などに比べて、「ヒアリング」がむずかしい。発音の難しさもあるが、漢字ベースで同音異義語が多いので、「聴くだけで識別する」のがむずかしいのだ。
中国語や日本語は、どちらかといえば「見るための言語」なんだと思う。漢字という「記号化された絵」を使う以上、聴くよりも見たほうが早い。
アルファベットに比べて書くのはたいへんだが、読みとるのは早いという漢字の特性は、もしかすると、それを使う人間を、情報の発信者よりも受信者にしやすいかもしれない。また、聴覚より視覚に比重がある言語という側面では、「しゃべる人」よりも「書く人」にしやすいかもしれない。
そんなことも含めて、漢字というもの、また漢字という表意文字と、ひらがな・カタカナという表音文字をバランスよく使い分ける日本語というものに、あらためて興味を感じている。
言語はもっとも身近な「道具」であり、それによってコミュニケーションが成立する媒体であると同時に、それ自体ではなく別のものを指す「記号」である以上、もっとも古くからある「バーチャル」な存在でもある。
わたしたちは四六時中、言語につつまれて生きている以上、どんな言語につつまれているかによって、どんな人間になるかが変わってきても不思議はない。
以前の私は、英語が母国語だったら良かったのに、と思っていたこともあった。しかしいまの私は、日本語が母国語で良かったと思う。たくさんの言語をマスターしようとする場合、日本語を知っているというのは、出発点としては悪くない気がするのだ。