コンピュータと同じ歴史を歩む人間
梅田望夫さんのブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」で、面白いテーマが出ている。
「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050618/p1
「勉強能力」と「村の中での対人能力」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050620/p1
「知の創出」のコモディティ化への戸惑い
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050622/p2
一連のエントリの中心テーマのひとつに、「勉強ができる」という能力はこれから陳腐化していき、対人能力や人間力がより重要になる、というものがある。
<「知の時代」とか言われて久しいわけだが、「頭のいい秀才くん」たちが一人で机に向かい一人でコンピュータに向かいその結果生み出される「a lot of the most valuable products of the Information Economy」の価値は、「次の10年」で間違いなく下落していく。そういう実に「皮肉な事態」が到来するのである。「頭のいい秀才くん」タイプの人間は、世界中を見渡してみたら、あるいは世界中がつながってみたら、想像していた以上にたくさん存在していたのである。ここを直視しなければならない。むろん大天才は別だ>。
<たとえば、野球が好き、将棋が好き、音楽が好き、勉強が好き、という四人の少年のうち、野球が好きな少年と将棋が好きな少年と音楽が好きな少年の大半は、その三つでプロになって飯を食っていくことがどれだけ大変なことかをだんだんと知り、野球や将棋や音楽で飯を食うということをあるとき諦めて、それは趣味として、仕事は別に持つようになる。でも勉強が好きな少年は、何だかずっと勉強みたいなことをする仕事をして一生を送れるのではないかとこれまでは思ったし、ここ数十年はそういう仕事がけっこうたくさんあった。そういう状況自体が今後厳しくなって、勉強が好きな少年も、野球好きの少年や将棋好きの少年や音楽好きの少年と同じような「人生の厳しさ」に直面するようになる>。
私はこれを読んで、「まるでコンピュータとそっくりだ」、と思った。
かつては、コンピュータというもの自体が高価で、コンピュータを使う順番を待って、人々が列をなしていた時代があった。コンピュータを使える時間が限られているので、プログラムをまず紙に書いておいて、それを入力していたそうだ。
それがいつのまにか、1人で1台を独占的に使ったり、さらには自分のコンピュータを所有することも当たり前になった。そしていまでは、1人で何台もコンピュータを持っている人は珍しくないし、昔のスペックの低いPCは放置されたり、処分されたりしている。
まさにコンピュータは陳腐化し、コモディティ(ありふれたもの)になった。しかしより重要な変化は、CPUやディスク、メモリなどのスペックよりも、コンピュータを「ネットワーク」でつなぐことが当たり前になったということだ。
インターネットがブームになり始めた頃(もう10年近く前)、「ネットワークにつながっていないコンピュータは、ただの箱にすぎない」といったフレーズがよく聞かれた。いまではそんなことをわざわざ言う必要もないほど、それは当たり前になった。LANケーブルのささっていないPCは、いまではほとんど存在しないだろう。
しかし逆にいえば、ネットワークにさえつながっていれば、ひと昔前のスペックの低いPCでも、それなりに利用価値がある。LANや、インターネット全体が、いわば巨大なコンピュータのようなものなので、どんなに貧弱なPCでも、部品としてそれなりに活躍する余地があるのだ。
そんなコンピュータと同じような歴史を、人間も歩んでいるのではないか。
これまでは、勉強のできる奴、秀才、優秀な頭脳というのは、かなりの価値があった。昔は人材の流動性が低かったので、各地域や各会社のなかに、ローカル・ヒーローみたいな優秀な人材が、点在していたのだと思う。
しかしいまは、インターネットにより情報の流動性が極度に高まったので、人材もどんどん動くようになった。どんどん会社を移ったり、起業するのは当然になり、また人材を獲得する会社の側も、求人やヘッドハントはもはや日常業務になっている。
こうなると、秀才や高学歴の人間は、探せばいくらでもいるので、もう珍しくもなんともない。それは速いCPUのマシンのようなもので、速いに越したことはないが、人の100倍速いといった特別なものでない限り、もはや大した意味を持っていない。
重要なのは「スピード」(頭脳)よりも、むしろ「ネットワーク」(つながり)や「インターフェイス」(対人能力)のほうになってきている。いくら優秀な人材でも、つながりや対人能力の点で劣ってしまうと、その人材を活用するためにコストがかかるので、必要とされなくなってしまうのだ(そのコストがかかっても必要とされるのは、途方もなく優秀な人材だけだろう)。
扱いにくい秀才やエリートよりも、あまり勉強は得意ではないけれども、場をなごませるのが得意な人や、人と人とのつながりを生み出せる人のほうが、人材価値が上がってきているのではないか。
機械の発達で肉体労働が減ったように、コンピュータとソフトウェア、ネットワークの発達で、「秀才」的な論理作業は減ってくる。ハードな論理よりも、ソフトな感性や、クリエイティヴィティが求められる局面が増えてくるだろう。
そういう意味では、これからは女性の価値・地位が高まってくる気がする。
「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050618/p1
「勉強能力」と「村の中での対人能力」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050620/p1
「知の創出」のコモディティ化への戸惑い
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050622/p2
一連のエントリの中心テーマのひとつに、「勉強ができる」という能力はこれから陳腐化していき、対人能力や人間力がより重要になる、というものがある。
<「知の時代」とか言われて久しいわけだが、「頭のいい秀才くん」たちが一人で机に向かい一人でコンピュータに向かいその結果生み出される「a lot of the most valuable products of the Information Economy」の価値は、「次の10年」で間違いなく下落していく。そういう実に「皮肉な事態」が到来するのである。「頭のいい秀才くん」タイプの人間は、世界中を見渡してみたら、あるいは世界中がつながってみたら、想像していた以上にたくさん存在していたのである。ここを直視しなければならない。むろん大天才は別だ>。
<たとえば、野球が好き、将棋が好き、音楽が好き、勉強が好き、という四人の少年のうち、野球が好きな少年と将棋が好きな少年と音楽が好きな少年の大半は、その三つでプロになって飯を食っていくことがどれだけ大変なことかをだんだんと知り、野球や将棋や音楽で飯を食うということをあるとき諦めて、それは趣味として、仕事は別に持つようになる。でも勉強が好きな少年は、何だかずっと勉強みたいなことをする仕事をして一生を送れるのではないかとこれまでは思ったし、ここ数十年はそういう仕事がけっこうたくさんあった。そういう状況自体が今後厳しくなって、勉強が好きな少年も、野球好きの少年や将棋好きの少年や音楽好きの少年と同じような「人生の厳しさ」に直面するようになる>。
私はこれを読んで、「まるでコンピュータとそっくりだ」、と思った。
かつては、コンピュータというもの自体が高価で、コンピュータを使う順番を待って、人々が列をなしていた時代があった。コンピュータを使える時間が限られているので、プログラムをまず紙に書いておいて、それを入力していたそうだ。
それがいつのまにか、1人で1台を独占的に使ったり、さらには自分のコンピュータを所有することも当たり前になった。そしていまでは、1人で何台もコンピュータを持っている人は珍しくないし、昔のスペックの低いPCは放置されたり、処分されたりしている。
まさにコンピュータは陳腐化し、コモディティ(ありふれたもの)になった。しかしより重要な変化は、CPUやディスク、メモリなどのスペックよりも、コンピュータを「ネットワーク」でつなぐことが当たり前になったということだ。
インターネットがブームになり始めた頃(もう10年近く前)、「ネットワークにつながっていないコンピュータは、ただの箱にすぎない」といったフレーズがよく聞かれた。いまではそんなことをわざわざ言う必要もないほど、それは当たり前になった。LANケーブルのささっていないPCは、いまではほとんど存在しないだろう。
しかし逆にいえば、ネットワークにさえつながっていれば、ひと昔前のスペックの低いPCでも、それなりに利用価値がある。LANや、インターネット全体が、いわば巨大なコンピュータのようなものなので、どんなに貧弱なPCでも、部品としてそれなりに活躍する余地があるのだ。
そんなコンピュータと同じような歴史を、人間も歩んでいるのではないか。
これまでは、勉強のできる奴、秀才、優秀な頭脳というのは、かなりの価値があった。昔は人材の流動性が低かったので、各地域や各会社のなかに、ローカル・ヒーローみたいな優秀な人材が、点在していたのだと思う。
しかしいまは、インターネットにより情報の流動性が極度に高まったので、人材もどんどん動くようになった。どんどん会社を移ったり、起業するのは当然になり、また人材を獲得する会社の側も、求人やヘッドハントはもはや日常業務になっている。
こうなると、秀才や高学歴の人間は、探せばいくらでもいるので、もう珍しくもなんともない。それは速いCPUのマシンのようなもので、速いに越したことはないが、人の100倍速いといった特別なものでない限り、もはや大した意味を持っていない。
重要なのは「スピード」(頭脳)よりも、むしろ「ネットワーク」(つながり)や「インターフェイス」(対人能力)のほうになってきている。いくら優秀な人材でも、つながりや対人能力の点で劣ってしまうと、その人材を活用するためにコストがかかるので、必要とされなくなってしまうのだ(そのコストがかかっても必要とされるのは、途方もなく優秀な人材だけだろう)。
扱いにくい秀才やエリートよりも、あまり勉強は得意ではないけれども、場をなごませるのが得意な人や、人と人とのつながりを生み出せる人のほうが、人材価値が上がってきているのではないか。
機械の発達で肉体労働が減ったように、コンピュータとソフトウェア、ネットワークの発達で、「秀才」的な論理作業は減ってくる。ハードな論理よりも、ソフトな感性や、クリエイティヴィティが求められる局面が増えてくるだろう。
そういう意味では、これからは女性の価値・地位が高まってくる気がする。