すべての言葉は一人歩きする
意見が合わないように見えるとき、実は意見が合っていないのではなく、
単に言葉の使い方が食い違っている、というケースは少なくない。
言葉は、それによって意思を伝えられるがゆえに用いられるが、
にもかかわらず、言葉はすべての人にとって厳密に同じものを意味してはいない。
言葉を使うとき、誰でも「自分の意味で」使う。
そしてその言葉を受け取る人もまた、「自分の意味で」受け取る。
つまり、自分がある意味を込めて放った言葉は、多かれ少なかれ、別の意味で解釈されるのだ。
こうして、すべての言葉は一人歩きする。
客観的に共有可能なのは「言葉そのもの」だけで、
そこに込められた意味のほうは、完全に客観的には共有できない。
言葉そのものは記号という客観物に定着しているが、
そこに込められた意味、そしてそれを解釈した意味は、
各人の心象内に漂っているだけで、それを直接検証する方法がない。
心象内のイメージがいったん言語化され、それを受け手がイメージに戻す。
この過程で、両者のイメージが厳密に一致することはありえない。
それでも、言葉によるコミュニケーションが「それなりに」成立するのは、
それがうまくいくように、各人が自分の心象内のイメージを「調整しあう」からだ。
言葉を重ねていき、矛盾しないようにイメージの調整がおこなわれる。
しかし、自分の中で矛盾がなくなるまでいくら互いに調整しても、
自分と相手が持っているイメージを直接比較することはできない。
これがまさに「限界」となる。
心象はその持ち主からしか見えない。
単に言葉の使い方が食い違っている、というケースは少なくない。
言葉は、それによって意思を伝えられるがゆえに用いられるが、
にもかかわらず、言葉はすべての人にとって厳密に同じものを意味してはいない。
言葉を使うとき、誰でも「自分の意味で」使う。
そしてその言葉を受け取る人もまた、「自分の意味で」受け取る。
つまり、自分がある意味を込めて放った言葉は、多かれ少なかれ、別の意味で解釈されるのだ。
こうして、すべての言葉は一人歩きする。
客観的に共有可能なのは「言葉そのもの」だけで、
そこに込められた意味のほうは、完全に客観的には共有できない。
言葉そのものは記号という客観物に定着しているが、
そこに込められた意味、そしてそれを解釈した意味は、
各人の心象内に漂っているだけで、それを直接検証する方法がない。
心象内のイメージがいったん言語化され、それを受け手がイメージに戻す。
この過程で、両者のイメージが厳密に一致することはありえない。
それでも、言葉によるコミュニケーションが「それなりに」成立するのは、
それがうまくいくように、各人が自分の心象内のイメージを「調整しあう」からだ。
言葉を重ねていき、矛盾しないようにイメージの調整がおこなわれる。
しかし、自分の中で矛盾がなくなるまでいくら互いに調整しても、
自分と相手が持っているイメージを直接比較することはできない。
これがまさに「限界」となる。
心象はその持ち主からしか見えない。