2006.01.29
すべての言葉は一人歩きする
意見が合わないように見えるとき、実は意見が合っていないのではなく、
単に言葉の使い方が食い違っている、というケースは少なくない。

言葉は、それによって意思を伝えられるがゆえに用いられるが、
にもかかわらず、言葉はすべての人にとって厳密に同じものを意味してはいない。

言葉を使うとき、誰でも「自分の意味で」使う。
そしてその言葉を受け取る人もまた、「自分の意味で」受け取る。
つまり、自分がある意味を込めて放った言葉は、多かれ少なかれ、別の意味で解釈されるのだ。
こうして、すべての言葉は一人歩きする。

客観的に共有可能なのは「言葉そのもの」だけで、
そこに込められた意味のほうは、完全に客観的には共有できない。

言葉そのものは記号という客観物に定着しているが、
そこに込められた意味、そしてそれを解釈した意味は、
各人の心象内に漂っているだけで、それを直接検証する方法がない。
心象内のイメージがいったん言語化され、それを受け手がイメージに戻す。
この過程で、両者のイメージが厳密に一致することはありえない。

それでも、言葉によるコミュニケーションが「それなりに」成立するのは、
それがうまくいくように、各人が自分の心象内のイメージを「調整しあう」からだ。
言葉を重ねていき、矛盾しないようにイメージの調整がおこなわれる。
しかし、自分の中で矛盾がなくなるまでいくら互いに調整しても、
自分と相手が持っているイメージを直接比較することはできない。
これがまさに「限界」となる。
心象はその持ち主からしか見えない。