2006.02.05
規格外の東大名誉教授、西村肇
Rauru Blogの「確かに、まず日本語ではあるが」に引用されていた、以下の言葉にピンとくるものがあった。

<したがって結論として言えば、私は単純に日本語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日本語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日本人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日本語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う>。

私も、日本語は直線的なロジックより、繊細なニュアンス表現を重視した言語だと考えているので、これには共感できる。
それにしても、日本人でも議論は英語でやるべきというのは、実にブッ飛んだ斬新な意見だ。
この西村肇という人は誰なんだろう。

Jim Nishimura
http://jimnishimura.jp/

これが西村氏のサイト。
検索して、NHK「BSディベートアワー」のページに、短くまとまったバイオグラフィーを見つけた。

◆西村 肇(にしむら はじめ)
 東京大学名誉教授

1933年 東京生まれ、満州育ち
1957年 東京大学工学機械学科卒業
1966年 東京大学工学部化学工学科助教授
1980年 東京大学工学部教授
1993年 東京大学名誉教授
    研究工房シンセシス設立、主催。現在に至る。

〈研究〉
専門は社会物理。社会物理は、複雑きわまる社会現象を対象にしながら、細部の緻密な物理解析を組み上げて、問題の全体像を明らかにする仕事。その代表的成果は「水俣病の科学」(岡本達明と共著)最新成果は、企業における個人の評価と報酬決定の問題を、理科的合理性を貫いて論じた「人の値段 考え方と計算」(講談社)

またそこに書いてある、西村氏の考え方の抜粋に、またしてもピンとくるものがあった。

<本当の理科人間は理屈を言い争うディベートを好みません。どんな結論にも理屈はつけられるので、このようなコトバによる議論が、意味ある結論に導くとは思わないからです。理科人間の議論は一回で論戦を決着できる物証の提示、あるいはそれから反論の余地なく導かれる推論の提示です。科学が常識の誤りを正すのは、このような議論によってです>。

<理性による解答に必要なのは、問題の基本構造の認識です。社会物理からの大事な結論が二つあります。第一は、独創的な仕事とは、みんなで相談して出来るものではなく、傑出した個人がみんなを引っ張って出来るものという点です。第二は、個人の成果の客観評価はゲマインシャフト(共同体人間関係)内部では不可能、客観評価にはゲゼルシャフト(ルールと契約関係による人間関係)が不可欠という点です。成果主義の失敗と言われる事例も、原因は、ゲマインシャフト構造を維持したまま、つまり既存上部体制を維持したまま、下部には成果主義を押し付けたことにあります>。

これは面白い。専門は理科系でありながら、社会の問題を扱っていて、『人の値段 考え方と計算』といった著書もある。

そしてあらためて、西村氏のサイトにある文章をいろいろ読み、検索で見つかったものもあわせて読んでいくと、みるみるうちに、この人は実にユニークな存在で、私にとって重要な人だということを確信させられるに至った。そのいくつかを抜粋してみる。

『人の値段 考え方と計算』 あとがき
http://jimnishimura.jp/soc_per/humanvalue/closing/closing.html

<したがって、この本で言いたかったことは、「はじめに」に全部かきました。しかし、一番言いたいことなのに書かなかったことがあります。 それは

「いまやゲマインシャフトは機能しない」
「機能しないゲマインシャフトの功利的利用が組織の腐敗を招く」
「腐敗を断つにはゲマインシャフト幻想をやめるしかない」

ということです。
(中略)
ゲマインシャフトを、家族内の所有関係人間関係の社会への延長と見ると、日本の「ムラ社会」も「ウチの会社」も「ウチの組合」もすべて同じ心情に支配されていることが分かります。またドイツ語Gemeinschftの原義は「共有体」で、フランス語、英語ではcommuneです。Communismはまさにここからきています。したがって日本社会は、イデオロギーは別として、基本的にCommunism体質なのです。戦争中日本の軍人と官僚が、ソ連の社会に非常な親近感を抱いた理由はそこにあります。一方アジア、特に東アジアにおけるゲマインシャフト志向は非常に強固なものがあります。それはそこで人々の心情を深く支配している儒教倫理とは、家族の倫理で社会を律しようとするものだからです。それはCommunismと無縁に見えながら、両立可能なものです。Communismが中国と朝鮮で生き残っているのも理由のあることです>。

「Debate練習はBusiness Talk にはマイナス」
Business talk is not a debate
http://jimnishimura.jp/soc_per/communication_ima/9.html

<Communication practice というとすぐDebate を思いうかべる人がいますが、実戦のbusiness talk は決してdebate ではありません。Debate は内容とは無関係の言語表現上の競技で、うまく相手のあげ足を取ったほうが勝ち、第3者のrefereeをimpress したほうが勝ちで、相手が納得したかどうか関係ありません。これに対し、business talk の目的は相手を納得させることで、あげ足取りはマイナスです。科学者もdiscussionはしますがdebateはしません。Discussionは真実を発見するための真剣なargument ですが、debate はコトバの上だけのargument, 論理学的に破綻がない発言をするための練習とみられているからです。
人間のKnowledgeは、Iceberg氷山にたとえることができます。Icebergには海面の上に出ている小部分Tiptopと海面下にある大部分があります。これは、Verbal Knowledge (教科書、百科事典などに言語で記載されている知識)とNonverbal Knowledge (個人の経験、感覚にとどまっていて言語表現が確立していない知識)に相当します。知識を論理的に組み合わせてできるのがStatement, そのStatement を組み合わせてできるのがTalk です。基本になる知識としては、Verbal Knowledge だけにかぎることもできるし、Nonverbal Knowledgeを言語化して一部に利用することも可能です。しかし意味のあるtalk は、かならず後者です。Nonverbal Knowledge世界から大事なものを発見し、それを言語化してVerbal Knowledgeの世界とつなげ、Verbal Knowledgeの世界を広げるようなものが、意味ある話でしょう。これに対しVerbal Knowledge だけを素材にしたstatementは、独断を完全に排除してしまうと、残るのは「四角いものは丸くない」と同類のtautology同義反復です。Business Talk では つまらない話、あたりまえの話では相手を説得できません。Verbal Knowledge だけでやるDebate の練習が有害なのはこのためです>。

「なぜ英語でなければならないか」
Leaving nothing behind
http://jimnishimura.jp/soc_per/communication_ima/5.html

<ほんとうのbusiness talk は激しい言いあいです。ほとんど「けんか」です。仕事の目的のためにはそれでよいのです。でもそれは所詮business 上のことですから、それで個人的感情が傷つくとか、感情的しこりが残るのはおろかなことです。避けなければなりません。この点、フランス人はさっぱりしています。すぐ感情むき出しになり、机をたたいてinsist し、ドアをけってでていきますが、決して根にはもちません。Explicit に言ってしまうから残らないといったほうがよいでしょう。日本人は逆で、ぐっと我慢するから「なんだ。あの野郎」という感情がのこってしまいます。コリア人は世界一感情的な国民といわれますが、それは感情を表にだすからで、こころの中をのぞけば、日本人もおなじくらい感情的でしょう。
議論がもとで感情的しこりが残るのは、business talk あるいは会議というものは、本来peer 同格者がおこなうべきものなのに、いたるところに上下意識が付きまとう日本では、peer としての発言はゆるされないためです。たとえば一年先輩に「君、それちがうじゃないの」といったら、間違いなく血を見ます。日本語では、発言の内容より、「言い方」が問題で、そこに注意が集中します。日本語がbusiness talk に向かない最大の理由は、business talk では、Yes,Noが最重要語であり、しかも同じ比重をもっていなければならないのに、日本語では、「はい」と「いいえ」とは同じ比重をもっていないことです。「いいえ」は、相手の意見、提案にたいしては礼儀上つかえない言葉です。とくに目上の人にむかっては、感情的衝突の覚悟なしには使えないコトバです。これが西武やUFJが腐敗転落した理由です>。

この調子で、WalkingLintさんのようにえんえんと引用したくなってしまうほど、読めば読むほどに面白い。西村氏のサイトや別の媒体で、西村氏が書いた面白い記事がたくさん見つかる。以下に、目についたものからいくつか、リンクだけ並べておく。

『古い日本人よさようなら』
http://jimnishimura.jp/soc_per/bye_oldj/bye_old_jnese.html
『日本破産を生き残ろう』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4535583684/
『技術者の真価が問われる時代がやって来る』
http://jimnishimura.jp/soc_per/diamond/interview.html
『「どうしたらいいの?-規格外れの東大名誉教授の体験的教育論-」』(連載)
http://www.gks.co.jp/series/series.html

これの最後にもあるように、西村肇は「規格外の東大名誉教授」と呼ばれているらしい。
たしかに「規格外」だ。こんなに面白い人はなかなかいないと思う。