2008.03.20
「AはBである」という文についての考察
「私は東京生まれです」、「私の弟は教師です」といった文において、「AはBです」が意味しているのは、「AはグループBに属している」「AはグループBの一員である」ということだ。Aは具体的な実体であり、Bは概念である。このときのAとBの関係を、仮に「メンバーシップ関係」(AはBのメンバーという関係)と呼ぼう。



いっぽう同じ「AはBです」というかたちの文であっても、「人間は動物です」というときは、意味が違う。「人間は動物です」の場合、人間も動物もグループであり、実体ではない概念だ。「人間は動物です」の意味は、「人間グループは動物グループに含まれる」ということであり、つまり「Xが人間であるならば、Xは動物である(Xが人間グループの一員であるならば、Xは動物グループの一員である)」の意味だ。このとき、AとBは両方ともグループで、AはBよりも「せまいグループ」という関係になっている。このときのAとBの関係を、仮に「包含関係」(AはBに含まれるという関係)と呼ぼう。



「AはBである」が「メンバーシップ関係」の場合、Aは実体なので、それが生きものか物質かを問わず、生まれてから死ぬまでのライフサイクルを持つ。いっぽうBは概念なので、言語的な存在であり、生きたり死んだりしない(ここでは、語や概念の変遷、その「誕生」や「死」は考えないものとする)。メンバーシップ関係においては、Aが言語的な存在ではなく実体なので、「AはBである」が真かどうかは大抵の場合、Aが現実にどんな状態であるかに依存する。これは分析哲学でいう「総合的な文」(真偽が現実の状態によって決まる文)である。

「AはBである」が「包含関係」の場合、AもBも言語的な存在なので、「AはBである」が正しいかどうかは、その両者の語の意味(定義)で決まる。その真偽を検証するために実体とつきあわせる必要がない。言語だけで決まるこのような文は、分析哲学でいう「分析的な文」(構文・意味の範囲で真偽が決まる文)である。

「メンバーシップ関係」は「総合的な文」であり、「包含関係」は「分析的な文」であることを考えると、現実に「AはBである」というかたちの文が用いられるとき、多くは前者の「メンバーシップ関係」であることが予想できる。これは、現実的な対象Aについて、Bという言語を使って何かを表現・説明するものだ。

これに対し、「AはBである」を「包含関係」として用いるときは、AもBも言語的な存在なので、Aという語をBという語によって説明する、という場合が多いと予想できる。数学や物理、法律、経済といった専門分野では、多くの概念によって体系ができているので、すでに知っている概念を土台にして、新しい概念を位置づけ、理解していく必要がある。このような専門分野の学習においては、「AはBである」が「包含関係」であることも多いだろう。