ヒュームの法則: 「である」から「べき」は導けない
18世紀イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、「である」から「べき」は導けない、と述べたそうだ。
これを「ヒュームの法則」というらしい。
Wikipedia - Hume's Law
http://en.wikipedia.org/wiki/Hume%27s_Law
<In meta-ethics, Hume's Law says that normative statements cannot be deduced exclusively from descriptive statements. This was proposed by David Hume in his work A Treatise of Human Nature (III, i. §1)>.
(大意:メタ倫理学において、ヒュームの法則とは、記述的言明(「~である」)だけから、規範的言明(「~べき」)は導けない、というもの。デイヴィッド・ヒュームが『A Treatise of Human Nature(人間本性論)』の中で述べた)
ウィキペディア - デイヴィッド・ヒューム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87...
<ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立根拠を問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めたと同時に、確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていないと考える懐疑論を打ち立て、経験論の限界を示した>。
<彼は因果関係の特徴は「でなければならないmust」という考え、あるいは必然性にあるとみなした。しかし彼は、原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはないと論じ、「であるbe」あるいは「起こるoccur」でしかなく、「must」は存在しないと主張した。一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえないのである。では「原因」と「結果」といわれるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である>。
またヒュームの法則と近いものに、「自然主義的誤謬」と呼ばれるものがあるようだ。
ウィキペディア - 自然主義的誤謬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA...
<自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)は、 naturalistic fallacy の訳語である。20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。その後この概念は、本当に誤謬なのかどうかも含めて、多くのメタ倫理学者によって再解釈・検討され、メタ倫理学の中心課題となってきた>。
<ムーアによれば、自然主義的誤謬とは、「善い」(good) を何か別のものと同一視することである>。
<ムーアは、定義とは複合概念を単純概念の組み合わせにおき直すことだとした上で、「善い」は単純概念だからこの意味での定義のしようがない、と論じる。これは「善い」に限らず、「黄色い」でも同じことであり、「黄色い」を定義しようとする人も自然主義的誤謬と同質の誤りを犯していることになる>。
ヒュームの法則も自然主義的誤謬も、「べき」や「善(good)」がどこから出てくるのかは自明ではなく、また他の何かに帰着させることもできない、と言っているようだ。
この「善」というものがどこから出てくるのか、その成立根拠を問うのが、メタ倫理学という学問らしい。
関連エントリ:
ウィキペディアの「誤謬」(ごびゅう)の解説がすばらしい
http://mojix.org/2008/05/08/fallacy
数学と科学の違い
http://mojix.org/2008/05/07/math_and_science
これを「ヒュームの法則」というらしい。
Wikipedia - Hume's Law
http://en.wikipedia.org/wiki/Hume%27s_Law
<In meta-ethics, Hume's Law says that normative statements cannot be deduced exclusively from descriptive statements. This was proposed by David Hume in his work A Treatise of Human Nature (III, i. §1)>.
(大意:メタ倫理学において、ヒュームの法則とは、記述的言明(「~である」)だけから、規範的言明(「~べき」)は導けない、というもの。デイヴィッド・ヒュームが『A Treatise of Human Nature(人間本性論)』の中で述べた)
ウィキペディア - デイヴィッド・ヒューム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87...
<ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立根拠を問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めたと同時に、確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていないと考える懐疑論を打ち立て、経験論の限界を示した>。
<彼は因果関係の特徴は「でなければならないmust」という考え、あるいは必然性にあるとみなした。しかし彼は、原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはないと論じ、「であるbe」あるいは「起こるoccur」でしかなく、「must」は存在しないと主張した。一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえないのである。では「原因」と「結果」といわれるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である>。
またヒュームの法則と近いものに、「自然主義的誤謬」と呼ばれるものがあるようだ。
ウィキペディア - 自然主義的誤謬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA...
<自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)は、 naturalistic fallacy の訳語である。20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。その後この概念は、本当に誤謬なのかどうかも含めて、多くのメタ倫理学者によって再解釈・検討され、メタ倫理学の中心課題となってきた>。
<ムーアによれば、自然主義的誤謬とは、「善い」(good) を何か別のものと同一視することである>。
<ムーアは、定義とは複合概念を単純概念の組み合わせにおき直すことだとした上で、「善い」は単純概念だからこの意味での定義のしようがない、と論じる。これは「善い」に限らず、「黄色い」でも同じことであり、「黄色い」を定義しようとする人も自然主義的誤謬と同質の誤りを犯していることになる>。
ヒュームの法則も自然主義的誤謬も、「べき」や「善(good)」がどこから出てくるのかは自明ではなく、また他の何かに帰着させることもできない、と言っているようだ。
この「善」というものがどこから出てくるのか、その成立根拠を問うのが、メタ倫理学という学問らしい。
関連エントリ:
ウィキペディアの「誤謬」(ごびゅう)の解説がすばらしい
http://mojix.org/2008/05/08/fallacy
数学と科学の違い
http://mojix.org/2008/05/07/math_and_science