定年制に反対する
「定年退職」という制度、「定年制」に、私は反対だ。
年齢だけを理由に、強制的に辞めさせるというのはおかしい。露骨な年齢差別であり、どう考えても公正(フェア)ではない。そもそも、60歳とか65歳とかを区切りにする根拠もない(年金給付にあわせているのだ、というのは「根拠」になっていない)。
「定年退職がなくなったら、会社に年寄りがあふれて、若者はさらに職を得られなくなるのでは?」と考える人もいるかもしれない。現状に即した推論としては基本的に間違っていないが、そうなってしまう根本的な理由は、そもそも解雇規制があるからだ。解雇規制自体がおかしい。
70歳でも仕事のできる人はいるし、40歳でも仕事のできない人はいる。年齢や性別などで差別するのではなく、あくまでも、仕事ができるかできないか、会社に貢献できるかできないか、そこだけを判断基準にすべきだ。
仕事ができない人、会社に貢献できない人は、年齢や性別によらず、自由に解雇できるようにすべきだ。これこそが公正(フェア)な基準なのであって、逆にこれ以外の基準で解雇するのは公正(フェア)ではない。
もちろん、会社や経営者は神様ではないので、能力や貢献度を判断する能力には限界があるし、会社と社員の相性もある。むしろ、そこに人間的な限界があるからこそ、自由に解雇できるようにして雇用流動性を高め、会社と労働者の「マッチング」の機会を増やすべきなのだ。会社と社員がフィットしてこそ、「人が活きる」。フィットしていない場合には気軽に変えられるようにしないと、人が活きないまま、会社も社員も互いにガマンさせられて、不幸になる。
定年制とは要するに、「老人は働くな」ということだ。これは、「女は家にいろ」というような前時代的な差別と少しも変わらない。
私が解雇規制に反対すると書くと、「能力の低い者があぶれてしまう」といった反論がよくある。会社への貢献が低い者を会社が解雇するのは当然だと私は思うが、貢献が低くても会社は雇用しつづける義務があると考える人は、老人になったら一斉に辞めさせている定年制についてはどう思うのだろうか。やはり、老人でも会社は雇用しつづける義務があると考えなければ、筋が通らないだろう。だとすれば、本人が死ぬまで辞めないぞと言えば、会社はその人が死ぬまで雇用義務があることになる。「ゆりかごから墓場まで」という言葉があるが、まさに墓場まで会社が面倒を見るわけだ。
もし社員が老人になっても、会社は解雇も減給もできないものとすれば、死ぬまで給料は上昇しつづけ、死ぬ直前が最高額になる。こうして考えると、正社員の解雇・減給を規制している日本の雇用規制が、いかに不条理で滑稽なものかがわかりやすくなる。この不条理で滑稽な規制があるからこそ、定年という「強制的な終わり」が要請されているわけだ。雇用規制という間違いによって生じる矛盾をカバーするために、さらに定年制という矛盾を重ねざるをえないのだ。
企業はボランティアではないので、誰を解雇しようが基本的に自由でいいと私は思うが、老人だとか女性だとかいう属性だけで解雇したり、冷遇するというのは、どう考えても公正(フェア)ではない。
同じ機会を与えられて競争した結果、勝者と敗者が出るのは当然であって、それは公正(フェア)だ。敗者は次の機会には勝てるよう努力すればいい。しかし最初から機会が与えられなかったり、機会が1回しかなくて、それに失敗したら終わりとか、機会を得たとしても差別的な待遇を受けつづけるといったものは、公正(フェア)ではない。
定年制は、国の法規制ではなく社内規定レベルとはいえ、年齢差別が制度化・慣例化してしまっているという驚くべきものだ。定年まで勤務できた人は、職を得られない若年層などよりもはるかにマシだろうし、解雇規制という「巨悪」に比べれば、定年制など大したことはないとも言えるが、公正(フェア)ではない制度がまかり通っていて、常識化していることはやはり問題だ。
定年退職したあと、「第二の人生」へ元気に踏み出す人もいる一方で、とたんに人生の目的を失って「抜け殻」のようになってしまう人もいる。人間は千差万別、ほんとうに人それぞれだ。老人になっても働きたいかどうかは本人次第だし、本人と会社が合意できるなら、死ぬまで働いてもいいと思う。定年制なんて、まったく「大きなお世話」だ。
俳優には定年などない。本人が望み、仕事があれば、死ぬまで俳優だ。老いた俳優には、老いてこその味わいがある。もちろん、老いてもなお活躍しつづけている俳優は、ずっと努力を続けているからこそ、結果を出し、評価され、仕事がもらえている。老人だから情けをかけてもらえるわけではないし、仮に情けをかけてもらっても、その俳優はちっともうれしくないはずだ。
仕事も同じだろう。老人は、若者とまったく同じことはできないにしても、長い人生経験を経てきた、老人ならではの強みがある。もちろん、老人なら誰でも有能なわけでもないし、特に情けをかけたり、甘やかす必要もない。ごく普通に、仕事の仲間として老人を認め、「老人扱い」しないこと。それが本当の意味で、老人をリスペクトすることになる。
定年制は、老人を「老人」と見なすという線引き、分類を強めているはずだ。老人は、「老人扱い」されることで、いろいろな機会を失ってしまい、よけい老けてしまう。老人も「制度化」されているのであり、これも「構造」なのだ。
年齢だけを理由に、強制的に辞めさせるというのはおかしい。露骨な年齢差別であり、どう考えても公正(フェア)ではない。そもそも、60歳とか65歳とかを区切りにする根拠もない(年金給付にあわせているのだ、というのは「根拠」になっていない)。
「定年退職がなくなったら、会社に年寄りがあふれて、若者はさらに職を得られなくなるのでは?」と考える人もいるかもしれない。現状に即した推論としては基本的に間違っていないが、そうなってしまう根本的な理由は、そもそも解雇規制があるからだ。解雇規制自体がおかしい。
70歳でも仕事のできる人はいるし、40歳でも仕事のできない人はいる。年齢や性別などで差別するのではなく、あくまでも、仕事ができるかできないか、会社に貢献できるかできないか、そこだけを判断基準にすべきだ。
仕事ができない人、会社に貢献できない人は、年齢や性別によらず、自由に解雇できるようにすべきだ。これこそが公正(フェア)な基準なのであって、逆にこれ以外の基準で解雇するのは公正(フェア)ではない。
もちろん、会社や経営者は神様ではないので、能力や貢献度を判断する能力には限界があるし、会社と社員の相性もある。むしろ、そこに人間的な限界があるからこそ、自由に解雇できるようにして雇用流動性を高め、会社と労働者の「マッチング」の機会を増やすべきなのだ。会社と社員がフィットしてこそ、「人が活きる」。フィットしていない場合には気軽に変えられるようにしないと、人が活きないまま、会社も社員も互いにガマンさせられて、不幸になる。
定年制とは要するに、「老人は働くな」ということだ。これは、「女は家にいろ」というような前時代的な差別と少しも変わらない。
私が解雇規制に反対すると書くと、「能力の低い者があぶれてしまう」といった反論がよくある。会社への貢献が低い者を会社が解雇するのは当然だと私は思うが、貢献が低くても会社は雇用しつづける義務があると考える人は、老人になったら一斉に辞めさせている定年制についてはどう思うのだろうか。やはり、老人でも会社は雇用しつづける義務があると考えなければ、筋が通らないだろう。だとすれば、本人が死ぬまで辞めないぞと言えば、会社はその人が死ぬまで雇用義務があることになる。「ゆりかごから墓場まで」という言葉があるが、まさに墓場まで会社が面倒を見るわけだ。
もし社員が老人になっても、会社は解雇も減給もできないものとすれば、死ぬまで給料は上昇しつづけ、死ぬ直前が最高額になる。こうして考えると、正社員の解雇・減給を規制している日本の雇用規制が、いかに不条理で滑稽なものかがわかりやすくなる。この不条理で滑稽な規制があるからこそ、定年という「強制的な終わり」が要請されているわけだ。雇用規制という間違いによって生じる矛盾をカバーするために、さらに定年制という矛盾を重ねざるをえないのだ。
企業はボランティアではないので、誰を解雇しようが基本的に自由でいいと私は思うが、老人だとか女性だとかいう属性だけで解雇したり、冷遇するというのは、どう考えても公正(フェア)ではない。
同じ機会を与えられて競争した結果、勝者と敗者が出るのは当然であって、それは公正(フェア)だ。敗者は次の機会には勝てるよう努力すればいい。しかし最初から機会が与えられなかったり、機会が1回しかなくて、それに失敗したら終わりとか、機会を得たとしても差別的な待遇を受けつづけるといったものは、公正(フェア)ではない。
定年制は、国の法規制ではなく社内規定レベルとはいえ、年齢差別が制度化・慣例化してしまっているという驚くべきものだ。定年まで勤務できた人は、職を得られない若年層などよりもはるかにマシだろうし、解雇規制という「巨悪」に比べれば、定年制など大したことはないとも言えるが、公正(フェア)ではない制度がまかり通っていて、常識化していることはやはり問題だ。
定年退職したあと、「第二の人生」へ元気に踏み出す人もいる一方で、とたんに人生の目的を失って「抜け殻」のようになってしまう人もいる。人間は千差万別、ほんとうに人それぞれだ。老人になっても働きたいかどうかは本人次第だし、本人と会社が合意できるなら、死ぬまで働いてもいいと思う。定年制なんて、まったく「大きなお世話」だ。
俳優には定年などない。本人が望み、仕事があれば、死ぬまで俳優だ。老いた俳優には、老いてこその味わいがある。もちろん、老いてもなお活躍しつづけている俳優は、ずっと努力を続けているからこそ、結果を出し、評価され、仕事がもらえている。老人だから情けをかけてもらえるわけではないし、仮に情けをかけてもらっても、その俳優はちっともうれしくないはずだ。
仕事も同じだろう。老人は、若者とまったく同じことはできないにしても、長い人生経験を経てきた、老人ならではの強みがある。もちろん、老人なら誰でも有能なわけでもないし、特に情けをかけたり、甘やかす必要もない。ごく普通に、仕事の仲間として老人を認め、「老人扱い」しないこと。それが本当の意味で、老人をリスペクトすることになる。
定年制は、老人を「老人」と見なすという線引き、分類を強めているはずだ。老人は、「老人扱い」されることで、いろいろな機会を失ってしまい、よけい老けてしまう。老人も「制度化」されているのであり、これも「構造」なのだ。