永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
ウィキペディア - 永代橋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8..
東京都中央区から(2008年3月)
<永代橋(えいたいばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。地下に東京地下鉄東西線が通る。夕刻から22時まで青白くライトアップされる>。
以前、この永代橋の近くで働いていたことがあり、隅田川の川べりをよく散歩した。
「歴史」によると、永代橋はなかなか激動の歴史をたどってきたようだ。
<永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋>。
<「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある>。
<幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、文化4年8月19日 (旧暦)(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす>。
幕府が財政難で永代橋を維持できなくなり、享保4年(1719年)に廃橋を決めるが、地元が経費を負担することで存続できた。しかし文化4年(1807年)、富岡八幡宮の祭礼で人が集まり、落橋事故が起きてしまったのだ。
<橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している>。
<永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼>
なんと見事な狂歌だろう。「永代」という名前の橋をかけたのに、落ちてしまった。祭礼で人が集まったのに、葬礼になってしまった。
大田南畝肖像『近世名家肖像』より
大田南畝(おおた なんぽ)は狂歌の名人で、狂歌とは<社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)>だそうだ。この作品も、悲惨な落橋事故を描きつつ、どこか滑稽(コミカル)なところがいい。
永代橋はその後も、激動の歴史をたどる。
<事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。明治37年には東京市電による路面電車も敷設された(昭和47年11月に廃止)。しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された>。
1897年完成の旧永代橋
<「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある>。
1807年の落橋事故のあと、江戸幕府が再架橋し、明治維新を経て、明治30年(1897年)、鉄橋として現在の場所に架橋される。明治37年(1904年)には路面電車も走った(昭和47年(1972年)まで)。しかし関東大震災(1923年)では炎上事故が起きて、多くの焼死者、溺死者を出してしまった。その後、大正15年(1926年)にできたのが、いまの永代橋だそうだ。
永代橋は、2000年には清洲橋とともに「土木遺産」に選定され(「帝都を飾るツイン・ゲイト」)、2007年には勝鬨橋・清洲橋とともに、国の重要文化財(建造物)に指定されたとのこと。
関連:
ウィキペディア - 永代橋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8..
ウィキペディア - 大田南畝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7..
土木学会 - 土木学会選奨土木遺産
http://www.jsce.or.jp/contents/isan/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8..
東京都中央区から(2008年3月)
<永代橋(えいたいばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。地下に東京地下鉄東西線が通る。夕刻から22時まで青白くライトアップされる>。
以前、この永代橋の近くで働いていたことがあり、隅田川の川べりをよく散歩した。
「歴史」によると、永代橋はなかなか激動の歴史をたどってきたようだ。
<永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋>。
<「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある>。
<幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、文化4年8月19日 (旧暦)(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす>。
幕府が財政難で永代橋を維持できなくなり、享保4年(1719年)に廃橋を決めるが、地元が経費を負担することで存続できた。しかし文化4年(1807年)、富岡八幡宮の祭礼で人が集まり、落橋事故が起きてしまったのだ。
<橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している>。
<永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼>
なんと見事な狂歌だろう。「永代」という名前の橋をかけたのに、落ちてしまった。祭礼で人が集まったのに、葬礼になってしまった。
大田南畝肖像『近世名家肖像』より
大田南畝(おおた なんぽ)は狂歌の名人で、狂歌とは<社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)>だそうだ。この作品も、悲惨な落橋事故を描きつつ、どこか滑稽(コミカル)なところがいい。
永代橋はその後も、激動の歴史をたどる。
<事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。明治37年には東京市電による路面電車も敷設された(昭和47年11月に廃止)。しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された>。
1897年完成の旧永代橋
<「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある>。
1807年の落橋事故のあと、江戸幕府が再架橋し、明治維新を経て、明治30年(1897年)、鉄橋として現在の場所に架橋される。明治37年(1904年)には路面電車も走った(昭和47年(1972年)まで)。しかし関東大震災(1923年)では炎上事故が起きて、多くの焼死者、溺死者を出してしまった。その後、大正15年(1926年)にできたのが、いまの永代橋だそうだ。
永代橋は、2000年には清洲橋とともに「土木遺産」に選定され(「帝都を飾るツイン・ゲイト」)、2007年には勝鬨橋・清洲橋とともに、国の重要文化財(建造物)に指定されたとのこと。
関連:
ウィキペディア - 永代橋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8..
ウィキペディア - 大田南畝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7..
土木学会 - 土木学会選奨土木遺産
http://www.jsce.or.jp/contents/isan/