2003.10.18
人間はどこまで動物か - ケータイを持ったサル
CNET梅田氏のBlogで、「ケータイを持ったサル」(正高信男著・中公新書)という本が紹介されている。

この本は、著者の正高氏が<若者の生態を、サルを観察するように観察して書いた本>だそうで、これは面白そうだ。

Amazonのその本のページを見ると、こんな評が載っていた。

「いまどきの若いやつは!」本です。ルーズソックスにはじまり地べた座り、電車の中での化粧、度を越した言葉の乱れ・・・全ては「家の中主義」すなわち公的世界とのコミットメントの拒絶が根本にある。集団というより「群れ」の中で生きている。「おはよ」「げんき?」の無意味なケータイのコミュニケーションはサルのそれとそっくりだ!と断じてます。
要するに今の日本の若者はどんどん「サル化」「退化」している、という主張です。ではなぜ日本でだけこういうことになるの?という問いに対する著者の回答は「親が悪い」と。著者の専門は霊長類の研究です。
>(yn0711氏のレビューより)

私は基本的には、「いまどきの若いやつは!」的な見方には反対する立場で、総体的・相対的に見れば、昔の世代より若い世代のほうに希望を感じる。しかし、この著者の立つ「人間をサルと見る視点」も大事だと思う。霊長類の研究者の言い分には、長年の経験・知識に裏付けられたそれなりの見識があるはずだ。

梅田氏のBlogでは、この本から次のような箇所が引用されている。

われわれが霊長類の一種であるにもかかわらずサルと区分され得るのは、自己実現を遂げて人生を送るからではないだろうか。つまり、ひとりひとりが、その個人にしかできないユニークな何かを達成して生活する。

<自己実現>こそ人間の価値だというのは、マズローの欲求段階説とも一致していて、おそらくその通りだろう。これ自体はそれほど斬新な見方とはいえないとしても、日ごろサルを観察している霊長類の研究者だからこそ、人間の特性としてそこを強く感じているに違いない。

そして私はむしろ、「動物みたいだからダメだ」というのではなく、いいか悪いかは置いておいて、「人間のどこが動物に似ているのか」というところに興味がある。

これはちょうど、人間がやっている作業のうち、機械やコンピュータに置き換えられるのはどういうものか、という話にも似ている。

機械やコンピュータが登場したとき、人間の仕事が奪われてしまい、職がなくなってしまうという議論がつねにあった。人間の活動のすべてを機械やコンピュータで代替することはもちろん無理だが、かなりの部分を代替できることも確かだ。

機械やコンピュータの技術が進むと、人間が不要になるのではなく、つまらない作業から解放され、より高度な作業、人間にしかできない創造的な作業に移行できるようになる。仕事がなくなるのではなく、仕事の質が変わり、より面白くてやりがいのある仕事に移行できるのだ。

「人間は動物とは違う」、「人間はコンピュータで置き換えられない」といった結論それ自体は、ほとんど自明だろう。しかし、では具体的にどこまで違うのか、どこまで置き換えられるのかは、決して自明ではない。そして、そこが面白いと思うのだ。