2005.09.02
「お金があまっている」 とはどういうことなのか、それはなぜなのかを考えてみる
大西 宏のマーケティング・エッセンス : 郵貯・簡保の340兆円はいずこに
http://ohnishi.livedoor.biz/archives/50036959.html

<商品やサービスと同じでお金もニーズがないと、いくらお金を供給しようとしても借り手がありません。つまり需要が伸びてこず、貸出先もないままにどこかに眠るしかなくなります。実際、日銀はゼロ金利の超金融緩和政策をとってきましたが、それでも資金需要が思うように伸びず、また経済活性化の効果が目に見えてはでてこず、しかもデフレに歯止めがかかりませんでした。だから金融緩和だけでなく、さらにお金をどんどん発行してお金の供給を増やそうとしてきましたが、こっちもお金に対するニーズがなく、流そうとしているノルマが達成できていません。じゃぶじゃぶ流そうにも流れない。それが日本の経済の現状です。
なにか大きく儲かる事業の見通しがあれば、お金を借りて投資しようとしますが、これだけ低成長の時代、しかもデフレ圧力が強い時代にそうそう儲かるビジネスが潤沢にあるわけではありません>。

いま日本でもっとも注目されているお金といってもいい、この郵貯・簡保の340兆円。
日本だけでなく、世界じゅうから熱い視線を浴びています。

これだけでなく、最近は「資金が余っている」という話をよく聞きます。株や不動産投資、REITなどの人気を見ても、それは伝わってきます。早くもバブってきてるのかと思うほどです。

しかし、投資するほどたくさんお金を持っているのはやはり一部の人であって、大半の人は、あまり余裕のない暮らしをしているはず。私のところにも、もし資金がありあまるほどジャブジャブあったらさぞや楽しいだろうと思うのですが、残念ながらありません。

ここで幼稚園児のように素朴に考えれば、

「お金があまっているなら、もっていない人にあげれば?」

ということになるでしょう。なぜそうならないのか?

この「お金があまっている」とはどういうことなのか、私がちょっと考えたことを書いてみたいと思います。これは郵貯・簡保の340兆円の話や、郵政民営化の話と直接は関係ないですが、まったく関係ないわけでもないと考えています。

「お金があまる」ということの原因は、つきつめれば、「お金をタダで捨てる人がいない」ことだと思います。

これがもしキャベツであれば、保管するのに場所もとるし、すぐに腐ってしまうので、腐る前に誰かにあげたり、それでも余れば捨てるでしょう。

キャベツでなくても、ほとんどすべてのものが、そういうものです。

これに対して、いくらたくさん持っていても、いつまで持っていても困らないのが、お金です。

「お金があまっているなら、もっていない人にあげればいい」という素朴なソリューションが通用しないのは、「あまっている」といっても、「いらない」わけではない、というところがミソです。

あまってはいるが、捨てたいわけではない。ではどうしたいのかというと、

1)できるだけ有利に、最悪でも減らないように運用したい(お金を持っている人の立場)

2)流通させ、経済活動・生産活動を促進したい(行政の立場)

というわけです。

だから、「お金があまっているなら、ボクにちょうだい」と名乗り出ても、もらえない。

もらえる(借りれる)資格があるのは、そのお金を使って生産活動をして、もとのお金を増やすことができる人だけ。

つまり「お金があまっている」ということのほんとうの意味は、「お金の量に対して、お金を増やせる力量のある人が少ない」ということなのです。

ここでまた、いろいろ考えるべきことがあります。

1)そういう力量がある人は、ほんとうに少ないのか。

2)力量がある人を、どうやって見つけるか。

3)力量がある人を、どうやって増やすか。

4)お金を増やせば、何をやってもいいのか。

1)~3)は、人材の発見や教育の話になるでしょう。

人材の発見は、職業でいえばベンチャーキャピタルの人などがやっていることだと思います。人材の教育は、小学校からMBAスクールまで、あらゆる学校でやっているし、学校以外のところにも、「教育」システムは有形無形に存在します。

人材の発見や教育もすごく大事な問題で、私も興味がありますが、これは別の機会に譲ります。

ここでは、4)について少し書いておきたい。

テレビでサラ金(消費者金融)のCMがこんなに多くなってきたのは、いつ頃からだろうか。

サラ金というのは、貸す側からすれば、えらく儲かるビジネスだろう。いまどき、利回りが10%を超える投資なんてあまりないから、20%といった金利で貸せば、多少貸し倒れがあっても、かなりの「パフォーマンス」を叩き出すはずだ。

私はサラ金の存在を否定しないし、資金を融通するビジネスも絶対必要だと思うが、サラ金の高利が「持つ者」と「持たざる者」の格差を広げていることは間違いないと思う。

同じ融資でも、銀行が企業に融資するのと、サラ金が個人に融資するのでは、ぜんぜん違う。まず金利もだいぶ違うが、それ以上に違うのは、企業はその資金を使ってビジネスをおこない、それを増やすが、個人はその資金を使ってビジネスをやるわけではないので、その資金を増やせないということだ。

つまり個人への融資は、「困っている人を助ける」という点では役に立っている面もあるが、「その人が価値を生み出す」ことを助けているわけではない。その融資が高利であれば、「困っている人を助ける」どころか、いっそう困らせることになり、その人はますます価値を生み出すことができなくなる。

利回りだけを追求した投資、「お金を増やせば、何をやってもいい」ような投資は、要注意だ。その高いパフォーマンスの裏側に、犠牲になって泣いている人がいるかもしれない。

相手からむしりとるような商売は、「Win-Lose」なビジネスだ。それは目先の利益のために地球の環境を痛めつけるのと同じで、長くは続かない。相手を潰してしまうからだ。

お金は、一時的に高い利回りを生む投資にではなく、「人間が価値を生み出すのを助ける」方向に使うべきだ。それが長期的には、本当の意味で「いい投資」になる。

「お金があまっている」こと自体は、たいした問題ではないと思う。むしろチャンスかもしれない。

「価値を生み出す」ことができる人間や、「価値を生み出す」ことの重要性をわかっている人間が少ないから、「お金があまっている」のではないか。

つまりこれは、ぜんぜんお金の問題ではなく、「価値」の問題ではないだろうか。

お金の中でばかり考えていると、いつまで経っても「価値」は生まれない。
むしろ、いつのまにか「価値」を潰しているかもしれない。