2005.10.08
「働く」 より 「売る」 が基本
お金を稼ぐためには、「働く」必要があると思っていないだろうか?

そして、「働く」という言葉の勤勉な響きに比べて、「売る」という言葉はどことなく下品であり、儲けばかり考えている商売人のようなイメージがないだろうか?

私は30年以上、ずっとそう思っていた。

しかしいまの私は、「働く」よりも「売る」のほうが基本であり、むしろ「純粋」ですらある、と考えるようになった。

お金を稼ぐ方法として、会社に勤めたり、アルバイトするのが普通だと思う。
いっぽう、自分で店を開いたり、自分の作品を売ったりしている人は、どちらかといえば少数派だろう。

しかし、経済活動の原始的な形態からすると、自分の持ちものや作品、サービスなどを、自分自身で市場に売るほうが、より「基本」だと思うのだ。

自分にお金が入ってくるということは、必ず、何かを売っている。

自営業の人やフリーランスの人などは、これがわかりやすい。しかし会社に勤めている人でも、会社に対して、自分の労働やサービスを「売っている」。売る相手が市場ではなく、自分が勤めている会社なのだ。

この場合、その売買は市場ではなく、会社と勤め人のあいだだけでおこなわれる。ここでは、市場原理が直接はたらかないので、提供されている労働やサービスの値段(支払われる給料)が、実際の価値に対して高すぎたり、安すぎたりすることが起きやすい。この場合、どちらにしても不都合が生じる。

市場という開かれた場所では、売るのも自由、買うのも自由、値づけも自由だ。値段以上に価値があると見なされれば買い手がつくし、そうでなければ買う人がいない。「神の見えざる手」により、値段は適切なものに調整されるし、競争力のないものは淘汰される。すべてが自由であるかわりに、「保障」みたいなものもない。

私が子供の頃、「はたらくおじさん」というテレビ番組があった。いろいろな職業の人の仕事を紹介するという教育番組で、学校の道徳の時間などに見せるために作られた番組だ。

この「はたらくおじさん」的に社会を見ると、「働く」ことがまず基本で、その一部として、自営業者など「売る」人がいる、ということになるだろう。私たちはまさに、そのように社会を見るよう育てられた気がする。

しかし、そうではないのだ。「売る」ことのほうが基本であり、その一部として、「働く」人がいるのである。

「はたらくおじさん」は、むしろ「うるおじさん」であるべきだった。

電車の車内に貼ってある高校や大学の広告で、よく「社会で通用する人材」なんていうフレーズを見かける。
社会で通用する人材って、いったいどんな人材だろうか?
礼儀正しく、教養があって、常識をわきまえた、そんな人材だろうか。

礼儀も、教養も、常識も、たしかに大事ではある。
しかし私にとって、「社会で通用する人材」の定義とは、「市場で売れるものを持っている人」だ。

「市場で売れるものを持っている人」こそが、社会に「価値」を提供できる人だと思う。
資本主義では社会が市場なのだから、これはほとんど同語反復に近いほど、あたりまえのことだ。