2006.01.27
すべてが手軽になってしまうと、何かが失われるような気もする
ネットの出現により、ありとあらゆる情報が、すぐに手に入るようになった。

いまは海外の現地ニュースなども、ネットで、それもたいてい無料で、いくらでも読める。
こんなことは、ネット以前にはまったく考えられなかった。
ミュージシャンのディスコグラフィー、映画監督のフィルモグラフィー、作家の著作リストなど、なんでも手に入る。
こういうものを調べるのは、ネットがない頃はじつに苦労したものだ。

このように、なんでも即座に手に入るようになったのは素晴らしいのだが、
その一方で、こんなふうにすべてが手軽になってしまうと、何かが失われるような気もするのだ。
この「感じ」は何なんだろう。

ネットがなかった頃は、情報はこれほどかんたんには手に入らなかったので、
自分の知らない情報への「あこがれ」が大きかった気がする。
ちょっとした情報でも、それを手に入れるまで、さんざん苦労するのだ。
それゆえに、それを入手したときの感動や「ありがたみ」も、じつに大きかった。

人間の幸せや満足感は、情報やモノそのものではなく、
むしろ「あこがれ」や感動、「ありがたみ」のほうにあるのではないか。

病気や怪我をすると、健康の素晴らしさが身にしみる。
事故や災害に見舞われると、平和な日常が最高であることに気づく。

コップ1杯の水や、1個のおにぎり、1杯のみそ汁を、どう思うか。
その人の置かれている状況次第で、それは最高の恵みにもなり、どうでもいいものにもなる。
それを最高の恵みだと思うほど過酷な状況は、なるべく作り出さないようにすべきだが、
それをどうでもいいと思うほど贅沢な状況も、それはそれで問題だと思うのだ。

情報についても、これとどこか似たものを感じている。
もちろん、食料と情報はいろいろな点で違うし、
有意義な情報ならいくらあっても多すぎということはないだろう。

しかし、情報が多すぎ、容易に入手できすぎて、不感症になってしまうような状況は、
ひとつひとつの情報、特に大切な情報に対する感受性やリアリティを鈍らせていき、
人間の感性や知性をどこか磨耗させてしまうのではないかという気がするのだ。

もちろん、いまさらネット以前に戻ることはできない。
しかし、いまはどこか荒っぽい段階というか、発展途上にあるという気がする。
「情報が増えた」「入手が容易」なのはいいことなのだが、どこか「つらい」感じがするのだ。
情報が未整理なまま、大量に放射されており、それを浴びているような感じだろうか。

この「つらい」感じが、もっと「いきいきした」感じになればいいと思う。
情報をうまく組織化して、感性や知性を刺激してくれるような、何か新しい仕組みが必要な気がする。
それがどういうものか、私もわからないのだが。

ネット以前の自分のほうが、知性も感性も鋭かったような気がする。
これは、単に私自身が歳をとったり、凡庸になってしまったのもあるかもしれない。
しかしどうも、ネットがなかった頃のほうが「静か」で、深く集中できていたような気もするのだ。
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