2006.02.09
プッシュ・メディアとプル・メディア
梅田本イベントの第一部、「これからのメディアについて」に触発されて考えたことを書いてみます。
実際に話された議論の内容については、ログを参照してください。
以下は、単に私が考えたことに過ぎません。

---

「マスメディア vs ネット」という図式は、「旧世代 vs 新世代」みたいな要素や、「上流 vs 下流」(あるいはその反対)、リテラシーの格差といった要素も含んでいるが、「プッシュ・メディア vs プル・メディア」という軸で考える必要もあると思う。

ここで「プッシュ・メディア」「プル・メディア」という語は、以下のような意味で用いている。

プッシュ・メディア
メディアは情報を流し、わたしたちは受動的に情報をうけとる。わたしたちは情報を浴びる。

プル・メディア
メディアが待っていて、わたしたちは能動的に情報をとりにいく。わたしたちは情報の選択を続ける。

こう書くと、なんだかプッシュ・メディアは洗脳機械で、プル・メディアを使うほうが賢い感じがするが、プッシュ自体が悪いわけではないと私は考える。

重要なのは、プッシュ・メディアの質だ。誰でも、プルよりはプッシュのほうがラクだし、ラクなほうがいいと思う。

いまのテレビの問題は、プッシュであることそれ自体ではなく、そのコンテンツが悪いということにある。
プルの場合、悪いものがあっても、自分で選択できるので、それを自力でよけられる。

しかしプル型は、自分で選択できることがメリットであると同時に、「自分で選択しなければならない」ということ、また「自分で選択したものしか入ってこない」ことが、デメリットにもなる。

単に選ぶのが面倒だという怠惰さだけでなく、ノイズから有用な情報を探すという手間をかけなければならないのは、非効率だ。また、つねに自分で選ぶために、「予想外の出会い」が起こりにくい。「自分がボトルネック」になるのだ。

どんな人にでも、疲れた状態や、冴えない時間はある。そして人間は連想する動物なので、受動的に情報を浴びることで、刺激されたり、アイディアがわいたりもする。

ウィトゲンシュタインは、昼間の講義では激しい哲学的思考をするので、夜は頭をからっぽにして映画を見るのが好きだったそうだ。ウィトゲンシュタインでさえ、映画というプッシュ・メディアを浴びる時間が必要だったのだ。

すぐれた作品を見たり、聴いたりするのは、すばらしい体験だ。
決してプッシュが悪いわけではなく、プッシュの質が問題だろう。

私もすべてのテレビ番組を知っているわけではないが、どうもひどいものの割合が多いことは確かだと思う。チャンネルが少なくて選択の余地も少なく、独占的で巨大な権力機構になっていることも疑いはないだろう。その点では、私はもちろんネットを支持する。

ただ、ネットも相当ノイズが多いことは確かだ。いいコンテンツが山のようにある一方で、無法地帯と化している度合いもすごいものがある。無法地帯まで行かなくても、コンテンツが加工されずにナマで投げ出されているようなものが多く、また検索などのフィルタリング方法も未熟なので、S/N比(有用な情報である割合)はあまり高くない。

そう考えると、テレビはテレビ、ネットはネットであり、どっちもどっちという気になる。結局どちらにも、
<いいものもある。悪いものもある。>(スネークマンショー)
というところではないだろうか。

そこでもっとも確実に違うのは、プッシュ・メディアとプル・メディアという、「物理的な」違いだと思うのだ。

ただでさえプッシュ・メディアのほうがラクなところに、テレビのハードウェアのインターフェイスは単純であり、老人でも操作できる。いっぽう、ネットはまだまだ「むずかしい」。PCというややこしいものの中の、ブラウザの中に、それはあるのだ。

ネットが真にテレビと戦うには、プッシュ・メディアを作り、このインターフェイスの問題を解決しなければ、土俵にすら立てないと思う。

アメリカでは、RocketboomというビデオブログがTiVoでサポートされ、テレビで見れる状態だという。面白い勝負を始めるには、日本でもまずそのくらいまで行く必要がある。