2008.04.02
楽譜は設計、演奏は実装
私はこれまで、それほど熱心なクラシック・ファンではなかったのだが、最近はクラシックを買う割合がだんだん増えてきた。

特に「のだめ」ブームに乗ったわけではないのだが、タイミング的には、「のだめ」以降に大量発生している「にわかクラシック・ファン」の一員といえるだろう。

私にとってクラシック音楽は、曲の良さなどももちろんあるが、作曲の結果である「楽譜」と、その「演奏」が完全に分離しているところが面白い。

これはソフトウェアでいえば、楽譜は「設計(書)」であり、演奏は「実装」(ソフトウェア)にあたるだろう。

そもそもこの分離は、昔は演奏そのものを記録・保存する方法がなかったので、記譜法という「記述言語」を編み出すしかなかった、というところから出たものと思う。

しかしこの結果、「楽譜という設計」と「演奏という実装」が分離し、以下のようなメリットが生じた。

・作曲者は作曲(設計)に、演奏者は演奏(実装)に集中できる
・楽譜(設計書)のレベルで、管理や流通、保存ができる
・クラシック愛好者が、曲と演奏者の両方の基準で選択できる

そして決定的なのは、この仕組みによって、「いい曲が残る」ということだと思う。

仮に、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなどの時代に演奏そのものの録音が可能で、それが残っていたとして、逆に楽譜が残っていなかったら、いまのようにバッハやモーツァルト、ベートーヴェンの作品が後世までずっと残ることはなかったように思う。

私が好きなクラシック作品のひとつに、シフというピアニストが演奏するバッハの『平均律クラヴィーア曲集』というのがある。シフは「グールド以来、最高のバッハ弾き」と言われ、バッハの鍵盤作品の演奏では、グールドに次いで知られる存在だ。

シフの演奏は、グールドの演奏とはぜんぜん違う。それはシフやグールドに限らず、クラシックの演奏というのはみな、同じ曲であっても演奏者ごとにぜんぜん違うし、それぞれの持ち味がある。しかし、演奏において裁量の余地がありつつも、それは「同じ曲」なのであり、そこが面白いと思う。

そもそも、バッハの時代には演奏そのものを録音できなかっただけでなく、ピアノという楽器自体がなかった(バッハの時代はチェンバロが主流だったらしい)。

バッハの『平均律クラヴィーア曲集』は、楽譜という設計レベルで残され、冊子として流通し、その演奏は自由におこなえる余地があったからこそ、グールドやシフなどの名演奏が生まれた。

それはバッハや『平均律クラヴィーア曲集』に限らず、クラシックはみな、そのようにできている。それがクラシックという音楽ジャンルの強みであり、面白さだと思う。

参考:
YouTube - A Comparison of Four Interpretations of Bach's BWV 871a
http://www.youtube.com/watch?v=p7FIJ54dP4Q
『平均律クラヴィーア曲集』第2巻の曲について、グールド、リヒテル、シフ、テューレックの4人の演奏を比較。