2008.04.06
標準教養試験
ふと「教養」って何なんだろう?と思い、ウィキペディアの「教養」のページを見てみた。

ウィキペディア - 教養
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E9%A4%8A

<教養(きょうよう)とは、個人の人格に結びついた知識や行いの事。これに関連した学問や、芸術および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。
 一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す>。

<また、「教養」は、伝統的に西欧の大学で扱われているリベラル・アーツに相当するものとしても捉えられる。この起源もギリシア時代の自由人のための学問に起源を発する。しかし現代の日本では、「パンキョウ」(一"般教"養)という語に代表されるように、大学の専門課程以前の広範な一般的基礎知識を指すに終止することが多い>。

その他、詳しい解説が書かれているが、「教養とはこれだ」という決定打はない感じだ。
それは裏返せば、現実の社会では「教養」という言葉は多義的に使われているということだろう。

例えば、どこかの年長者が「最近の若者は教養がない」と嘆いたとして、ではその年長者にとって、若者はどのくらい教養があれば「教養がある」ことになるのだろうか。

この「教養」にまつわるあいまいさをなくすために、いっそ「標準教養試験」みたいなものがあればいいと思う。

大学入試では「センター試験」というものがあり、ちゃんと機能しているのだから、やろうと思えば「標準教養試験」みたいなものは十分可能だろうと思う。

時代の変化によって、必要とされる「教養」は変わっていく。昔の日本人であれば、きっと文学や哲学などに詳しかっただろうが、いまの日本人は、ITや経済、ビジネスなどの知識も必要だ。「標準教養試験」では、そういう時代の変化を反映して、いまの平均的な日本人が持つべき「標準的な教養」のバランスと達成レベルを毎年提示する。

「標準教養試験」は、あらゆる人の教養を点数化し、序列化してしまう試験なので、実際やるとなったら、ものすごい反発を食らうだろう。しかし現実的には、勉強してこれを受ける側も、またこの点数を採用や人事評価などに使う側も、双方がメリットを受ける。このように「数値で結果が出るもの」というのは残酷だが、具体的なメリットがあり、努力がフェアに報われる世界だ。

「標準教養試験」があれば、単純に、勉強する人が増えるはずだ。
「教養」の市場が拡大するので、出版や教育などが活気づくだろう。
この種のことは、英検やTOEICなどの「英語学習市場」ではすでにおこなわれているともいえる。
それを「教養」に拡大するような感じだ。

こう考えると、「標準教養試験」は無意味な道路工事などに比べれば、経済政策としても悪くない気がする。
お金がまわる上に、教養がつくのだ。

また「品格」みたいなよくわからないものではなく、達成度が具体的な数値で出てくるので、
教養があるのかないのか、はっきりするのがいい。