蔵研也さんのブログ、FLOSSとリバタリアニズムの関係
『リバタリアン宣言』(朝日新書)の蔵研也さんにメールを送ったら、ブログで感謝の言葉をいただいてしまった。
kurakenyaの日記 - FLOSSやってる人は偉いよね
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20080727
<zopeの桜井さんから励ましのメールをいただき、
たいへんに心強く感じた(どうもありがとう)>。
私は『リバタリアン宣言』を読んで、リバタリアニズムへの理解・共感が深まったと同時に、蔵さんのファンになった。蔵さんはものすごく頭の切れる人であることは間違いないが、気取らずわかりやすい文体で、その人格者ぶりも伝わってきた。
蔵さんのサイト「蔵研也のanarcho-capitalism研究室」には、著書の内容がほとんど載せられている。『リバタリアン宣言』も全部読めるので、目次だけでも眺めてみてほしい。
蔵さんのブログは、著書に比べるとリラックスした文体で、その「ゆるい」感じがまた良くて、私は愛読していた。すると最近のエントリで、こんなことが書かれていた。
kurakenyaの日記 - typeAさん ありがとう
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20080725
<ブログを書くことに疲れるという「ブログ疲れ」がある。
これは、小生も大変によく理解できる。
なぜなら、どの程度の人数が、
小生のくだらない無意味なブログを読んでいるか、
ほとんど全くわからないからだ>。
<今日はたまたまtypeAさんという方からコメンをもらえた(ありがとう)が、
おそらく、小生のブログは日本全体でも10人も読んでいないだろう。
なかなかモチィベーションを維持するのが難しいレベルだ。
まあ、小生の職業生活が続く限りは継続するつもりだが、
その後のことは分からない。
あるいはどこかの途上国にいくべきだろう。
それもそれで、地球人としては納得できる人生だろう>。
リラックスした感じの蔵さんのブログだから、こういう自虐的なボヤキもわりと「芸風」として溶け込んでいるようにも見えたのだが、しかしここには真実の声も含まれていると思い、愛読している旨のメールを送った。
するとていねいな返事が来て、冒頭に紹介したエントリで感謝の言葉までいただいてしまった、というわけなのだ。
(なお、上記のエントリのきっかけを作ったtypeAさんもリバタリアンで、私はtypeAさんのブログも愛読している)
このエントリで蔵さんは「FLOSS」について書いているが、これはウィキペディアの解説にある通り、<フリーソフトウェアとオープンソースソフトウェアをまとめて表現する語>だ。日本ではこの意味で「オープンソース」と書かれることが多いが、ヨーロッパなどではよく「FLOSS」と表記される。
そしてこのエントリは、蔵さんのブログの上では「anti-patent movement」の話につながっているのだが、私にとっては、蔵さんがFLOSSに言及したということで、そういえばFLOSSとリバタリアニズムというのは「自由」でつながっていたんだ、ということに気づかされるものだった。
リバタリアニズムは、ウヨクでもサヨクでもなく、「自由」を尊重し、自由が最大化することを望む政治的立場だ。リバタリアニズムの「自由」は、「思想的自由」と「経済的自由」の両方の意味で、「国家による強制」からの自由である。
これに対してFLOSSの「自由」は、「自由に使ってよい」というライセンスの自由だ。フリーソフトウェアとオープンソースでは、商用利用などに関していくらかスタンスの違いがあるが、大きく見れば、「(お金を払わなくても)誰でも自由に使える」というものだ(なお、FLOSSは自由に使用できるが、著作権は通常作者に属しており、放棄されない。著作権放棄は「パブリックドメイン」になる)。
リバタリアニズムは自由な経済活動を重視しており、市場や資本主義、金儲けはもちろんOKだ。その意味では、リバタリアニズムはなんら商用ソフトウェアを排除するわけではなく、直接FLOSSの肩を持つような立場ではない。しかし、FLOSSとリバタリアニズムには何か通じるものがあるような気がすることも確かで、それはやはり「自由」というところに帰着する気がする。
リバタリアニズムにとって資本主義は、「自由」を得るための方法だ。資本主義は万能ではないが、社会主義や共産主義に比べれば自由を多く得られる「マシな方法」だ。
FLOSSは、その資本主義の中で勢力を拡大しつづけており、実際に機能している。それは資本主義の「先」に出てきた、新しい現象だ。FLOSSはおそらく、従来の資本主義モデルを超えるような何かを提示している。
リバタリアニズムから見て、商用ソフトウェアよりもFLOSSの肩を持つ理由がもしあるとすれば、商用ソフトウェアは従来の資本主義そのままであるのに対して、FLOSSはその限界を超えて、さらに大きな「自由」を一般人の手にもたらす可能性があるという、そんな点にあるかもしれない。
リバタリアニズムは、国家は自由のジャマになると考える。なるべく国家なしでやっていくには、一般人が力を持つ必要がある。その意味でも、一般人に「自由」を与えるFLOSSは、世の中をリバタリアニズム的な理想のほうへ近づけてくれるものだろう。
kurakenyaの日記 - FLOSSやってる人は偉いよね
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20080727
<zopeの桜井さんから励ましのメールをいただき、
たいへんに心強く感じた(どうもありがとう)>。
私は『リバタリアン宣言』を読んで、リバタリアニズムへの理解・共感が深まったと同時に、蔵さんのファンになった。蔵さんはものすごく頭の切れる人であることは間違いないが、気取らずわかりやすい文体で、その人格者ぶりも伝わってきた。
蔵さんのサイト「蔵研也のanarcho-capitalism研究室」には、著書の内容がほとんど載せられている。『リバタリアン宣言』も全部読めるので、目次だけでも眺めてみてほしい。
蔵さんのブログは、著書に比べるとリラックスした文体で、その「ゆるい」感じがまた良くて、私は愛読していた。すると最近のエントリで、こんなことが書かれていた。
kurakenyaの日記 - typeAさん ありがとう
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20080725
<ブログを書くことに疲れるという「ブログ疲れ」がある。
これは、小生も大変によく理解できる。
なぜなら、どの程度の人数が、
小生のくだらない無意味なブログを読んでいるか、
ほとんど全くわからないからだ>。
<今日はたまたまtypeAさんという方からコメンをもらえた(ありがとう)が、
おそらく、小生のブログは日本全体でも10人も読んでいないだろう。
なかなかモチィベーションを維持するのが難しいレベルだ。
まあ、小生の職業生活が続く限りは継続するつもりだが、
その後のことは分からない。
あるいはどこかの途上国にいくべきだろう。
それもそれで、地球人としては納得できる人生だろう>。
リラックスした感じの蔵さんのブログだから、こういう自虐的なボヤキもわりと「芸風」として溶け込んでいるようにも見えたのだが、しかしここには真実の声も含まれていると思い、愛読している旨のメールを送った。
するとていねいな返事が来て、冒頭に紹介したエントリで感謝の言葉までいただいてしまった、というわけなのだ。
(なお、上記のエントリのきっかけを作ったtypeAさんもリバタリアンで、私はtypeAさんのブログも愛読している)
このエントリで蔵さんは「FLOSS」について書いているが、これはウィキペディアの解説にある通り、<フリーソフトウェアとオープンソースソフトウェアをまとめて表現する語>だ。日本ではこの意味で「オープンソース」と書かれることが多いが、ヨーロッパなどではよく「FLOSS」と表記される。
そしてこのエントリは、蔵さんのブログの上では「anti-patent movement」の話につながっているのだが、私にとっては、蔵さんがFLOSSに言及したということで、そういえばFLOSSとリバタリアニズムというのは「自由」でつながっていたんだ、ということに気づかされるものだった。
リバタリアニズムは、ウヨクでもサヨクでもなく、「自由」を尊重し、自由が最大化することを望む政治的立場だ。リバタリアニズムの「自由」は、「思想的自由」と「経済的自由」の両方の意味で、「国家による強制」からの自由である。
これに対してFLOSSの「自由」は、「自由に使ってよい」というライセンスの自由だ。フリーソフトウェアとオープンソースでは、商用利用などに関していくらかスタンスの違いがあるが、大きく見れば、「(お金を払わなくても)誰でも自由に使える」というものだ(なお、FLOSSは自由に使用できるが、著作権は通常作者に属しており、放棄されない。著作権放棄は「パブリックドメイン」になる)。
リバタリアニズムは自由な経済活動を重視しており、市場や資本主義、金儲けはもちろんOKだ。その意味では、リバタリアニズムはなんら商用ソフトウェアを排除するわけではなく、直接FLOSSの肩を持つような立場ではない。しかし、FLOSSとリバタリアニズムには何か通じるものがあるような気がすることも確かで、それはやはり「自由」というところに帰着する気がする。
リバタリアニズムにとって資本主義は、「自由」を得るための方法だ。資本主義は万能ではないが、社会主義や共産主義に比べれば自由を多く得られる「マシな方法」だ。
FLOSSは、その資本主義の中で勢力を拡大しつづけており、実際に機能している。それは資本主義の「先」に出てきた、新しい現象だ。FLOSSはおそらく、従来の資本主義モデルを超えるような何かを提示している。
リバタリアニズムから見て、商用ソフトウェアよりもFLOSSの肩を持つ理由がもしあるとすれば、商用ソフトウェアは従来の資本主義そのままであるのに対して、FLOSSはその限界を超えて、さらに大きな「自由」を一般人の手にもたらす可能性があるという、そんな点にあるかもしれない。
リバタリアニズムは、国家は自由のジャマになると考える。なるべく国家なしでやっていくには、一般人が力を持つ必要がある。その意味でも、一般人に「自由」を与えるFLOSSは、世の中をリバタリアニズム的な理想のほうへ近づけてくれるものだろう。