「的を得た」は間違いではなかった?「得る」には「当たる」の意味がある
「的を得た」は、「当を得た」と「的を射た」が混ざってしまった誤りだと思っていたのだが、語源から言うと間違いではない、という説があるらしい。
受験生のための世界史教室 - Super Lecture 『世界史論述練習帳』
http://www.ne.jp/asahi/wh/class/oubunsha.html
<語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです>。
<「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著(p.188 「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。古いですが、『徒然草92段』或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ……ここに見られる「得失」はいわゆる損得ではなく、的に当たること(得)と当らなかったこと(失)を指しています。「得失は、矢が的に的中する、的中しないの意と解する通説」とあります(『新明解古典シリーズ・徒然草』監修・桑原博史。書いてある通釈では得失を「当たるといいな、外れたらどうしよう」としています)。漢文の素養が豊かな吉田兼好には、的を得る・失うは、自然な表現だったとおもわれます>。
書評のメルマガ - vol.118
http://www.aguni.com/hon/review/back/118.html
<「正鵠」というのは、いわば的の「金的」と呼ばれる部分です。「的の中の的」という感じなのですが、そこに矢が当るのは、「失わず」なのです。で、「失」と対になるといえば「得」、つまり矢が的を捕らえるか否かは、「的を失う/得る」の対になることがわかります>。
<で、実はこの「正鵠」を辞書でひくと、「正鵠を射る」というのが例文として載っています。しかし、元の資料を見る限り、これは後世変形してしまったもので、元々は「得る」が正解になるわけです。実際、昭和初期までの著作物や、漢文関係の書籍を読んでいくと、僕の読んだ範囲内では、多くの人が「正鵠を得る」と表現してもいます>。
<そして、金的の部分が「得る」ならば、当然、的自体も「失う/得る」という表現になるべきなのです。こちらも、たとえば『論語の散歩道』(重沢俊夫 日中出版)という本で「的をえる」という表現を使っています。重沢先生も、おそらく同じ考えで「的は得るもの」として使っていると考えられます>。
ウィキペディアの「的 (弓道)」にも、「正鵠」の説明がある。
ウィキペディア - 的 (弓道)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84..
<的絵(的の模様)には霞的と星的と色(得点)的の3種類がある。競技規則には的中制の標的として霞的と星的が規定されているが、一般・中高生では通常霞的が使用される>。
上の絵の右側が「霞的」で、その説明にはこうある。
<中心から順に中白(半径3.6cmの円)、1の黒(幅3.6cm)、2の白(幅3.0cm)、2の黒(幅1.5cm)、3の白(幅3.0cm)、外黒(幅3.3cm)の輪状に塗られているもの。本来は式正の的であるが、現在では大学弓道を除いて一般的に使われる。中心の白円は正鵠ともいい、『正鵠を得る』とは的の中心に的中することである(「正」「鵠」とも的の意)>。
少なくとも「正鵠を得る」は、「正鵠を射る」と共に辞書にも載っている、正しい表現のようだ(「essay about books」「goo辞書 正鵠」など)。ということは、上記ページの説明にもあるように、「得る」には「当たる」の意味がある、というところまでは間違いなさそうだ。
「得る」に「当たる」の意味があり、「正鵠」が的の中心部分を指す以上、「的を得た」という表現には、単に「当を得た」と「的を射た」を混ぜた誤用だとは言い切れない、一定の「正統性」がある。少なくとも「ただの間違い」ではなかったわけだ。
個人的には、「的を射た(まとをいた)」というのはどうも言いにくく、特に「的を射た意見(まとをいたいけん)」というふうに「意見」とつながると、どうも居心地が悪い。「当を得た(とうをえた)」のほうは、音の上では悪くないが、「的(まと)」という具体物のイメージがない抽象表現なので、イメージ喚起力が弱い。
その点、「的を得た(まとをえた)」は、音も良くて、イメージ喚起力もある。もしこれの正しさが「公認」されたら、「当を得た」や「的を射た」よりも、ぜひこちらを積極的に使いたいところだ。「的を得た」には、ぜひがんばってほしい(笑)
受験生のための世界史教室 - Super Lecture 『世界史論述練習帳』
http://www.ne.jp/asahi/wh/class/oubunsha.html
<語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです>。
<「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著(p.188 「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。古いですが、『徒然草92段』或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ……ここに見られる「得失」はいわゆる損得ではなく、的に当たること(得)と当らなかったこと(失)を指しています。「得失は、矢が的に的中する、的中しないの意と解する通説」とあります(『新明解古典シリーズ・徒然草』監修・桑原博史。書いてある通釈では得失を「当たるといいな、外れたらどうしよう」としています)。漢文の素養が豊かな吉田兼好には、的を得る・失うは、自然な表現だったとおもわれます>。
書評のメルマガ - vol.118
http://www.aguni.com/hon/review/back/118.html
<「正鵠」というのは、いわば的の「金的」と呼ばれる部分です。「的の中の的」という感じなのですが、そこに矢が当るのは、「失わず」なのです。で、「失」と対になるといえば「得」、つまり矢が的を捕らえるか否かは、「的を失う/得る」の対になることがわかります>。
<で、実はこの「正鵠」を辞書でひくと、「正鵠を射る」というのが例文として載っています。しかし、元の資料を見る限り、これは後世変形してしまったもので、元々は「得る」が正解になるわけです。実際、昭和初期までの著作物や、漢文関係の書籍を読んでいくと、僕の読んだ範囲内では、多くの人が「正鵠を得る」と表現してもいます>。
<そして、金的の部分が「得る」ならば、当然、的自体も「失う/得る」という表現になるべきなのです。こちらも、たとえば『論語の散歩道』(重沢俊夫 日中出版)という本で「的をえる」という表現を使っています。重沢先生も、おそらく同じ考えで「的は得るもの」として使っていると考えられます>。
ウィキペディアの「的 (弓道)」にも、「正鵠」の説明がある。
ウィキペディア - 的 (弓道)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84..
<的絵(的の模様)には霞的と星的と色(得点)的の3種類がある。競技規則には的中制の標的として霞的と星的が規定されているが、一般・中高生では通常霞的が使用される>。
上の絵の右側が「霞的」で、その説明にはこうある。
<中心から順に中白(半径3.6cmの円)、1の黒(幅3.6cm)、2の白(幅3.0cm)、2の黒(幅1.5cm)、3の白(幅3.0cm)、外黒(幅3.3cm)の輪状に塗られているもの。本来は式正の的であるが、現在では大学弓道を除いて一般的に使われる。中心の白円は正鵠ともいい、『正鵠を得る』とは的の中心に的中することである(「正」「鵠」とも的の意)>。
少なくとも「正鵠を得る」は、「正鵠を射る」と共に辞書にも載っている、正しい表現のようだ(「essay about books」「goo辞書 正鵠」など)。ということは、上記ページの説明にもあるように、「得る」には「当たる」の意味がある、というところまでは間違いなさそうだ。
「得る」に「当たる」の意味があり、「正鵠」が的の中心部分を指す以上、「的を得た」という表現には、単に「当を得た」と「的を射た」を混ぜた誤用だとは言い切れない、一定の「正統性」がある。少なくとも「ただの間違い」ではなかったわけだ。
個人的には、「的を射た(まとをいた)」というのはどうも言いにくく、特に「的を射た意見(まとをいたいけん)」というふうに「意見」とつながると、どうも居心地が悪い。「当を得た(とうをえた)」のほうは、音の上では悪くないが、「的(まと)」という具体物のイメージがない抽象表現なので、イメージ喚起力が弱い。
その点、「的を得た(まとをえた)」は、音も良くて、イメージ喚起力もある。もしこれの正しさが「公認」されたら、「当を得た」や「的を射た」よりも、ぜひこちらを積極的に使いたいところだ。「的を得た」には、ぜひがんばってほしい(笑)