2010.07.05
手ぶらで富士山へ行ってはいけないのか?
YOMIURI ONLINE - 「手ぶら思いつき」で富士登山、「助けて」(2010年7月3日12時07分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100703-OYT1T00527.htm

<2日午後9時45分頃、富士山の8合目付近にいるという男性から「一人で富士山に登ったがライトを持っておらず、暗くて道がわからない。怖いので助けてほしい」と119番があった。
 静岡県警富士宮署などの山岳救助隊員6人が出動し、午後11時半頃、6合目(標高2490メートル)まで自力で下りてきた男性を保護した。男性にけがはなかった。
 同署の発表によると、男性は東京都中野区のパチンコ店店員(22)。2日午後5時頃、静岡県側の富士宮口5合目から入山し、9合目(3460メートル)付近まで登ったところで断念して下山を始めたが、暗くなったため携帯電話で救助を求めたという。
 男性は長袖のカッターシャツにジーパン、スニーカーの軽装。食料や装備もなく、手ぶらだった。富士山は1日に山開きしたが、6合目付近の気温は2度。男性は登山歴もなく、「思いつきで登ってしまった」と反省した様子だという。同署は「人騒がせな話。一歩間違えば命にかかわる。夏山でも装備はしっかりしてほしい」と訴えている>。

手ぶらで富士山へ行くなんて、山を知っている人からすれば非常識だろうし、「登山をなめるな」と思うかもしれない。しかし、手ぶらで富士山へ行こうが、南極へ行こうが、基本的には本人の勝手だと思う。

手ぶらで富士山へ行く人は、きっとたくさんいるだろう。トラブルがあると、こういうふうにニュースになったりするが、何もトラブルがなくて、手ぶらのまま無事帰ってきている人もたくさんいるはずだ。トラブルがないどころか、「手ぶらで軽装だったので、むしろラクだった」と思った人もいるかもしれない。

問題なのは、今回のように迷ったり、死にそうになったりすると、救助する必要が生じて、社会に迷惑をかけるということだ。救助されず、山で死んでしまったとしても、放置というわけにはいかないので、やはりコストがかかるし、社会に迷惑をかける。

結局のところ、「手ぶらで富士山へ行く」こと自体が問題なのではなくて、何かあったときに「自分で責任を取りきれない」「社会に迷惑をかけてしまう」ことが問題なのだ。

逆にいえば、「自分で責任を取りきれる」「社会に迷惑をかけない」のであれば、いかに愚かなことだろうと、禁じられるべきではない。

このニュースでは、救助された男性が<東京都中野区のパチンコ店店員(22)>だとわざわざ書かれていて、<男性は長袖のカッターシャツにジーパン、スニーカーの軽装。食料や装備もなく、手ぶらだった>という記述を読んでも、「なんとお気楽なヤツだ」という印象を与える。しかし、仮に大企業の重役や高級官僚だったとしても、そして登山用の重装備をしていたとしても、迷うときは迷うし、死ぬときは死ぬのだ。むしろ、ヘタに経験があって自信がある人のほうが危ない、という側面もある。

結局、こういう記事が出てくるのは、一種の「政府広報」なのだ。手ぶらで富士山に来る人が続出すると、トラブルが起きやすく、そうなれば救助のコストもかかるので、富士山に行くならしっかり装備して行けよ、という話である。小学校でやった「道徳」みたいな話が、日本ではマスコミを使って、年がら年じゅうおこなわれているのだ。

「手ぶらで富士山」くらいの話であれば、仮に手ぶらで富士山に行くことが禁止されたとしても、それほど自由が大きく失われるわけではない。しかしこれが、こんにゃくゼリー、ネットの薬販売、派遣規制、解雇規制といった話になると、規制の影響がより大きくなる。こうしたトピックの場合、政府のポジションはたいてい、規制を推進したい側になる。よって、政府の息がかかった「政府広報」的なニュースは、「規制がないために悲惨な事態が生じている。規制を作れば、こうした悲惨な事態は防げる」というストーリーになる。いっぽう、規制によって生じるデメリットやコスト、不公正は語られない。

この「手ぶらで富士山」のニュースは、たしかにこの男性が安易で認識不足だったことは確かだとしても、わざわざ<パチンコ店店員(22)>と書くなど、「政府広報」的な印象操作をいくらか感じる。もしこの男性が大企業の重役や高級官僚だったとしたら、きっとこのニュースは出なかっただろう。


関連エントリ:
「べき論」と規制
http://mojix.org/2010/02/19/bekiron_kisei
「規制脳」は国を滅ぼす
http://mojix.org/2009/01/05/kiseinou