2013.02.16
坂口安吾『第二芸術論について』(1947年)
先日紹介した桑原武夫の第二芸術論(1946年)について、坂口安吾がエッセイを書いているのを見つけた。

青空文庫 - 第二芸術論について 坂口安吾
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<近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかといふことだ。私は桑原武夫氏の「第二芸術論」を読んでゐないから、俳句や短歌が第二芸術だといふ意味、第二芸術とは何のことやら、一向に見当がつかない。第一芸術、第二芸術、あたりまへの考へ方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいふ出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいふ、便利な、いかにも有りさうな言葉のやうだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のやうに思はれる。
 むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまつてるぢやないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ>。

これが冒頭部分で、全体はこの数倍くらいの長さのエッセイである。初出は、岩波書店が出していた『詩学』という雑誌の第四号(1947(昭和22)年12月30日発行)とのこと。

桑原武夫の第二芸術論が出たのは1946年の末なので、そこから1年後くらいに書かれたもののようだ。<近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかといふことだ>とあるから、桑原武夫の第二芸術論は、この時点でかなりひろまっていたと思われる。

冒頭部分につづけて、安吾はこのように書いている。

<俳句も短歌も詩なのである。詩の一つの形式なのである。外国にも、バラッドもあればソネットもある。二行詩も三行詩も十二行詩もある。
 然し日本の俳句や短歌のあり方が、詩としてあるのぢやなく俳句として短歌として独立に存し、俳句だけをつくる俳人、短歌だけしか作らぬ歌人、そして俳人や歌人といふものが、俳人や歌人であつて詩人でないから奇妙なのである。
 外国にも二行詩三行詩はあるが、二行詩専門の詩人などゝいふ変り者は先づない。変り者はどこにもゐるから、二行詩しか作らないといふ変り者が現れても不思議ぢやないが、自分の詩情は二行詩の形式が発想し易いからといふだけのことで、二行詩は二行の詩であるといふことで他の形式の詩と変つているだけ、そのほかに特別のものゝ在る筈はない。
 俳句は十七文字の詩、短歌は三十一文字の詩、それ以外に何があるのか>。

俳句も短歌も詩の一種であり、詩の一つの形式にすぎない、というのが安吾の見方だ。俳句の世界、短歌の世界、というそれぞれの世界があるというよりも、詩という大きな世界があって、俳句も短歌もその一種に過ぎない、という捉え方だ。

<俳句だけをつくる俳人、短歌だけしか作らぬ歌人、そして俳人や歌人といふものが、俳人や歌人であつて詩人でないから奇妙なのである>とあるように、俳句や短歌の世界だけにとどまろうとする態度を、安吾は批判している。

桑原武夫の第二芸術論は読んでいないと冒頭で書き、「第二芸術」といった分類は無意味だとして、安吾は一見すると、桑原武夫に反対の立場であるかのように見える。しかし中身を読むと、俳句や短歌の世界だけにとどまる者は詩人とは言えず、よって芸術家ではないという見方なのだから、桑原武夫の見方に近いとも言える。

<日本は古来、すぐ形式、型といふものを固定化して、型の中で空虚な遊びを弄ぶ。
 然し流祖は決してそんな窮屈なことを考へてをらず、芭蕉は十七文字の詩、啄木は三十一文字三行の詩、たゞ本来の詩人で、自分には十七字や三十一字の詩形が発想し易く構成し易いからといふだけの謙遜な、自由なものであつたにすぎない。
 けれども一般の俳人とか歌人となるとさうぢやなくて、十七字や三十一字の型を知るだけで詩を知らない、本来の詩魂をもたない。
 俳句も短歌も芸術の一形式にきまつてゐるけれども、先づ殆ど全部にちかい俳人や歌人の先生方が、俳人や歌人であるが、詩人ではない。つまり、芸術家ではないだけのことなのである>。

このあたりは、いまいち筋が通っていない記述だと感じる。芸術に「型」が重要であることは言うまでもなく、安吾自身もそれを前提に書いているのに、「型の中で空虚な遊び」というのは、ちょっと乱暴である。「型」よりも本質、「詩魂」が重要であるというのも、言いたいことはわかるが、これだと「型」の重要性が抜け落ちてしまう。安吾の見方というのは、大さっぱに言えば、その人が詩人なのかどうか、芸術家なのかどうかがすべてであって、「型」はどうでもいいのだ、みたいな感じだろう。

エッセイの最後の部分では、こう書かれている。

<十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云へば文字にしかよらない散文、小説でも、限定といふことに変りはないかも知れないではないか。
 芥川龍之介も俳句をつくつてよろしい。三好達治も短歌も俳句もつくつてゐる。散文詩もつくつてゐる。ボードレエルも韻のある詩も散文詩もつくつてゐる。問題はたゞ詩魂、詩の本質を解すればよろしい。
 主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言ふに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいゝではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などゝいふものによつて限定さるべき性質のものではないのである。
 俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。たゞ、俳句の極意書や短歌の奥儀秘伝書に通じてゐるが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であつても、詩人でない、芸術家でないといふだけの話なのである>。

最後はこのように、「芸術かどうかは、その人が本物の芸術家かどうかで決まる」みたいな、あけすけな本質論で締められる。「わかる奴にはわかる」みたいな話で、これが要するに安吾の本音だろう。気持ちとしては、こう言いたいのもわかるが、これを言ってしまうと、芸術の議論はほとんど成り立たない。安吾は学者でなく芸術家なのだし、このエッセイもわりと面白いので、これでもいいと思うが‥。

この坂口安吾のエッセイは、桑原武夫の第二芸術論に賛同しているわけではないが、詩や芸術という大きな観点に立って、狭い世界に閉じこもる俳人・歌人を批判している。桑原武夫の明快さとは異なり、芸術家らしい、矛盾も含んだ直感的な記述だが、言っていることの要旨は、桑原武夫の主張とさほど遠くないようにも思える。立場も気質もアプローチも違う2人が、最終的にはわりと似たような地点にたどりつく、というのがおもしろい。


関連エントリ:
桑原武夫の第二芸術論(1946年) 「俳句は老人や病人の余技にふさわしい」
http://mojix.org/2013/02/05/kuwabara-haiku