首都大学東京、通称「クビダイ」
R30 : 首都大学東京に思う、大学は何する所ぞ
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/01/shutodai.html
<内田樹センセイのブログ回りで、首都大学東京、通称「クビダイ」の話が盛り上がっている。元都立大仏文科の助手だった内田氏が、「大学に文学部なんかいらねんだよ」とうそぶいた石原“スターリン”慎太郎都知事と、東北大学長時代に自分の研究室に学生が本を持ってくるのを禁じたという西澤“ヒトラー”潤一学長を、すごい勢いで罵倒している>。
首都大学東京、通称「クビダイ」だったのか(笑)
「石原“スターリン”慎太郎」とか、「西澤“ヒトラー”潤一」といったキャッチフレーズも面白い。私はわりと、こういうコワモテのキャッチフレーズをつけられてしまうくらい強いキャラの人にむしろ興味を感じるし、共感するところがある。
首都大学東京のホームページを見てみた。
首都大学東京
http://www.tmu.ac.jp/
なかなかきれいなサイトだ。使いやすく、よくできていると思う。
サイトがこれだけいいということは、大学にもわりと期待できるのでは、と私は考える。
盛り上がりの震源地、<内田樹センセイのブログ>を読んでみた。
内田樹の研究室 : 首都大学東京の光と影
http://blog.tatsuru.com/archives/000688.php
西沢潤一新学長のメッセージが引用されて、こう評されている。
<さしあたり私にわかるのは、この文章を書いた人間は、あまり日本語運用能力がないということと、論理的思考が苦手らしいということと、自分のことばを聴き手が理解してくれるかどうかということにはあまり興味がないタイプの人間だということであった。
そういうタイプの人間が教育事業に適性があるのかどうか、私はいささか懐疑的であるが、諸賢の印象はいかがであろうか>。
そして石原都知事のメッセージも引用されて、こう評されている。
<品格とか文彩というものを期待する種類の文章ではないけれど、それにしてもここに盛り込まれた教育理念の「貧しさ」にはどなたも一驚を喫されるであろう。
もし、これが現国の問題だとして「作者は何を言いたいのか?」という問いが出されたら、みなさんはどうお答えになるだろう。
私が予備校教師なら、熟慮の末に「私は東大が嫌いだ」と「大学生は自分の大学の教師からほとんど学ぶことはない」を「正解」とするであろう。
若いころから彼の書く文章には、東大がいかにろくでもない大学で一橋大学がいかによい大学かが繰り返し語られていたので、石原の東大嫌いを私は熟知しているが、七十歳を越してまだ「東大はダメで一橋がいい」ということを言いつのっているところをみると、これはもうほとんど「トラウマ」の域に達しているようである。
私も石原同様、東京大学というのがそれほどたいそうな教育機関だとは思っていない。だが、そんなことは日本国民のおおかたが熟知されていることのはずで、都知事が新大学の開校のメッセージにぜひとも書かなければならないほどのことではないように思われる。
他大学を名指しでけなすことばを開学の辞に含めるというのは、常識ある社会人のとる行動ではないだろう>。
この内田氏の評を読んで、みなさんはどう思うだろうか?
私が思ったのは、文章のわかりやすさなどについてはその通りかもしれないが、それが首都大学東京がうまくいくかどうかとはあまり関係がないのでは、ということだった。
大学を運営するには、メッセージのわかりやすさより、ビジョンや実行力のほうが重要なはずだ。「スターリン」石原と「ヒトラー」西澤が手を組んだ大学なんて、面白いことをやってくれそうじゃないだろうか?
他人の発言の一部を取り出して批判するなんて、誰でもできる。「経営は1・10・100」、実行すること、結果を出すことこそ肝心だ。少なくとも、これまでの実績で考えれば、西澤潤一を学長に引っ張った石原都知事の人選は悪くないのでは。
内田氏のエントリーでは、むしろ以下の提案のほうに意味があると私は思った。
<「大学生は自分の大学の教師からほとんど学ぶものがない」というのも、この文章の全体に伏流する主張であり、みなさんも私の読解に深く同意されると思う。
だが、その場合、それならどうして大学という制度を継続しなければならないのか、その理由が私にはうまく想像できない(どなたにも想像できないであろう)。
それよりはむしろ(これは前に書いたことの繰り返しになって恐縮だが)、「首都大」というサーバーを一個都庁の倉庫にでも置いてはどうか。
学生たちが「他の学校の、あの先生の講義」を聞きに行ったり、「カンボジア」に行ったり、堀江某の「金で買えないものはない」というような講演を聴きに行ったり、同年齢の友人たちとルームシェアして酒を飲むたびに、パソコンの端末から自己申告で「単位申請」を打ち込む。
そのように単位を「銀行に預金するように蓄積」して、124単位たまったら自動的に卒業証書がプリントアウトされるというシステムにすればよろしいのではないかと思う。
それなら、キャンパスもいらないし、教員もいらない。
サーバーのメンテをする派遣社員の二人もいれば十分である。
ときどき都知事と学長が「メッセージ」をHPに載せれば教育理念を周知徹底するには十分であろう。
それで学生一人から毎年数十万円の学費を徴収すれば、首都大学は都の財政負担を軽減するどころか、巨大な収入源になるはずである。
都の役人諸君にはぜひとも前向きでご一考願いたい>。
この案は面白い。
あまりに面白いので、東京都というよりは、ライブドアあたりがやりそうな感じだ。「ライブドア大学」とかいって(笑)
いずれにせよ、大学というシステムが古くなっていて、問い直しが必要なことは間違いなさそうだ。「クビダイ」にはいろいろ新しいことにチャレンジしてもらって、大学全体に刺激を与える存在になってほしい。
冒頭のR30さんのエントリでは、<大学改革を議論すると必ず出てくる論点なのだが、そも大学とは何をするところなのか、という話である>という一文があり、大学というものの歴史的な考察がある。
<つまり、首都大問題で見えてくるのは、社会に実益をもたらさないものは何であれ一切不要という「儒教的プラグマティズム」か、それともヒマを持て余す者だけが最高の教養を持つと信じる西欧的な「貴族的skhole至上主義」か、公的高等教育機関はどちらを目指すべきなのかという根本が揺らぐ、現代日本の知の構造そのものなのだ>。
これがズバリ、本質だろう。
これは私もずっと、漠然とではあるが考えてきた問題で、私自身、「実用的なスキル」と「趣味・教養」の両方に興味がある。人間にとって、その両方が重要で、欠かせないものだと思っている。
私が内田氏の記述を読んだとき、人文的な教養に比重が置かれている気がして、むしろ西澤潤一氏の味方をしたい気持ちになった。それは私の中で、その両方のバランスをとろうとしたからだと思う。
逆に、もし実用一辺倒の人が「東京都現代美術館は税金のムダ使いだ」と主張するのを見たら、実用に直結しない芸術の存在意義について、弁護したくなると思う。
この種の話を、まさにR30さんも書いている。日本では芸術系NPOなどの人が資金調達するのに苦労するが、<フランスやオランダでは、極端な話、「私は芸術家です。こういう芸術活動をします」という申請書を出すだけで、政府が1年分の生活費を支給してくれるらしい>とのこと(これは私も何度か聞いたことがあるので、本当だろう)。<フランスではそういう“芸術振興予算”が年1兆円以上ある>そうだ。
このバランス問題について、R30さんはこう書いている。
<というわけで、大変悲しいことではあるけれども、「大学はskholeの場であるべき」と考える方々は、既に芸術系の人たちがやっているように、そういう考え方を理解してくれるパトロンのいる場所(私立大学とか、大金持ち個人の主催する研究所とか)に逃げ込み、生き延びる戦略を考えるべきだと思う。「こんなことじゃ日本はどうなっちゃうんだ」みたいなことを言うのが、一番見苦しい。どうなっちゃうもこうなっちゃうも、内田教授みたいな人が減って100円ショップが増えるというだけのことでしょうが(笑)>
「内田教授みたいな人が減って100円ショップが増える」という表現はうまい。現実の可能性としては、たしかにこれがいちばんありそうに思う。
しかし私としては、欲張りかもしれないが、両方重要だし、それぞれ面白いという認識が広まって欲しいと思っている。
なんとかして両方のいいとこ取り、「or」でなく「and」戦略で行けないか。
つまり、「内田教授の100円ショップ」路線だ(笑)。
ほんとうに教養や芸術が価値あるものなら、それをなんらかのスキルやビジネスに載せれば、付加価値になるはずなのだ。
その両方のバランス、結合の仕方を教えてくれる大学があったら、面白いと思う。
もし私が「クビダイ」の学長を任されたら、そういう大学にしたい。
私なら「クビダイ」をこうする!というのを、みんなで考えてみると面白いかも。
どんな学部を作って、誰を学部長にするかとか、考えるだけで楽しい。
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/01/shutodai.html
<内田樹センセイのブログ回りで、首都大学東京、通称「クビダイ」の話が盛り上がっている。元都立大仏文科の助手だった内田氏が、「大学に文学部なんかいらねんだよ」とうそぶいた石原“スターリン”慎太郎都知事と、東北大学長時代に自分の研究室に学生が本を持ってくるのを禁じたという西澤“ヒトラー”潤一学長を、すごい勢いで罵倒している>。
首都大学東京、通称「クビダイ」だったのか(笑)
「石原“スターリン”慎太郎」とか、「西澤“ヒトラー”潤一」といったキャッチフレーズも面白い。私はわりと、こういうコワモテのキャッチフレーズをつけられてしまうくらい強いキャラの人にむしろ興味を感じるし、共感するところがある。
首都大学東京のホームページを見てみた。
首都大学東京
http://www.tmu.ac.jp/
なかなかきれいなサイトだ。使いやすく、よくできていると思う。
サイトがこれだけいいということは、大学にもわりと期待できるのでは、と私は考える。
盛り上がりの震源地、<内田樹センセイのブログ>を読んでみた。
内田樹の研究室 : 首都大学東京の光と影
http://blog.tatsuru.com/archives/000688.php
西沢潤一新学長のメッセージが引用されて、こう評されている。
<さしあたり私にわかるのは、この文章を書いた人間は、あまり日本語運用能力がないということと、論理的思考が苦手らしいということと、自分のことばを聴き手が理解してくれるかどうかということにはあまり興味がないタイプの人間だということであった。
そういうタイプの人間が教育事業に適性があるのかどうか、私はいささか懐疑的であるが、諸賢の印象はいかがであろうか>。
そして石原都知事のメッセージも引用されて、こう評されている。
<品格とか文彩というものを期待する種類の文章ではないけれど、それにしてもここに盛り込まれた教育理念の「貧しさ」にはどなたも一驚を喫されるであろう。
もし、これが現国の問題だとして「作者は何を言いたいのか?」という問いが出されたら、みなさんはどうお答えになるだろう。
私が予備校教師なら、熟慮の末に「私は東大が嫌いだ」と「大学生は自分の大学の教師からほとんど学ぶことはない」を「正解」とするであろう。
若いころから彼の書く文章には、東大がいかにろくでもない大学で一橋大学がいかによい大学かが繰り返し語られていたので、石原の東大嫌いを私は熟知しているが、七十歳を越してまだ「東大はダメで一橋がいい」ということを言いつのっているところをみると、これはもうほとんど「トラウマ」の域に達しているようである。
私も石原同様、東京大学というのがそれほどたいそうな教育機関だとは思っていない。だが、そんなことは日本国民のおおかたが熟知されていることのはずで、都知事が新大学の開校のメッセージにぜひとも書かなければならないほどのことではないように思われる。
他大学を名指しでけなすことばを開学の辞に含めるというのは、常識ある社会人のとる行動ではないだろう>。
この内田氏の評を読んで、みなさんはどう思うだろうか?
私が思ったのは、文章のわかりやすさなどについてはその通りかもしれないが、それが首都大学東京がうまくいくかどうかとはあまり関係がないのでは、ということだった。
大学を運営するには、メッセージのわかりやすさより、ビジョンや実行力のほうが重要なはずだ。「スターリン」石原と「ヒトラー」西澤が手を組んだ大学なんて、面白いことをやってくれそうじゃないだろうか?
他人の発言の一部を取り出して批判するなんて、誰でもできる。「経営は1・10・100」、実行すること、結果を出すことこそ肝心だ。少なくとも、これまでの実績で考えれば、西澤潤一を学長に引っ張った石原都知事の人選は悪くないのでは。
内田氏のエントリーでは、むしろ以下の提案のほうに意味があると私は思った。
<「大学生は自分の大学の教師からほとんど学ぶものがない」というのも、この文章の全体に伏流する主張であり、みなさんも私の読解に深く同意されると思う。
だが、その場合、それならどうして大学という制度を継続しなければならないのか、その理由が私にはうまく想像できない(どなたにも想像できないであろう)。
それよりはむしろ(これは前に書いたことの繰り返しになって恐縮だが)、「首都大」というサーバーを一個都庁の倉庫にでも置いてはどうか。
学生たちが「他の学校の、あの先生の講義」を聞きに行ったり、「カンボジア」に行ったり、堀江某の「金で買えないものはない」というような講演を聴きに行ったり、同年齢の友人たちとルームシェアして酒を飲むたびに、パソコンの端末から自己申告で「単位申請」を打ち込む。
そのように単位を「銀行に預金するように蓄積」して、124単位たまったら自動的に卒業証書がプリントアウトされるというシステムにすればよろしいのではないかと思う。
それなら、キャンパスもいらないし、教員もいらない。
サーバーのメンテをする派遣社員の二人もいれば十分である。
ときどき都知事と学長が「メッセージ」をHPに載せれば教育理念を周知徹底するには十分であろう。
それで学生一人から毎年数十万円の学費を徴収すれば、首都大学は都の財政負担を軽減するどころか、巨大な収入源になるはずである。
都の役人諸君にはぜひとも前向きでご一考願いたい>。
この案は面白い。
あまりに面白いので、東京都というよりは、ライブドアあたりがやりそうな感じだ。「ライブドア大学」とかいって(笑)
いずれにせよ、大学というシステムが古くなっていて、問い直しが必要なことは間違いなさそうだ。「クビダイ」にはいろいろ新しいことにチャレンジしてもらって、大学全体に刺激を与える存在になってほしい。
冒頭のR30さんのエントリでは、<大学改革を議論すると必ず出てくる論点なのだが、そも大学とは何をするところなのか、という話である>という一文があり、大学というものの歴史的な考察がある。
<つまり、首都大問題で見えてくるのは、社会に実益をもたらさないものは何であれ一切不要という「儒教的プラグマティズム」か、それともヒマを持て余す者だけが最高の教養を持つと信じる西欧的な「貴族的skhole至上主義」か、公的高等教育機関はどちらを目指すべきなのかという根本が揺らぐ、現代日本の知の構造そのものなのだ>。
これがズバリ、本質だろう。
これは私もずっと、漠然とではあるが考えてきた問題で、私自身、「実用的なスキル」と「趣味・教養」の両方に興味がある。人間にとって、その両方が重要で、欠かせないものだと思っている。
私が内田氏の記述を読んだとき、人文的な教養に比重が置かれている気がして、むしろ西澤潤一氏の味方をしたい気持ちになった。それは私の中で、その両方のバランスをとろうとしたからだと思う。
逆に、もし実用一辺倒の人が「東京都現代美術館は税金のムダ使いだ」と主張するのを見たら、実用に直結しない芸術の存在意義について、弁護したくなると思う。
この種の話を、まさにR30さんも書いている。日本では芸術系NPOなどの人が資金調達するのに苦労するが、<フランスやオランダでは、極端な話、「私は芸術家です。こういう芸術活動をします」という申請書を出すだけで、政府が1年分の生活費を支給してくれるらしい>とのこと(これは私も何度か聞いたことがあるので、本当だろう)。<フランスではそういう“芸術振興予算”が年1兆円以上ある>そうだ。
このバランス問題について、R30さんはこう書いている。
<というわけで、大変悲しいことではあるけれども、「大学はskholeの場であるべき」と考える方々は、既に芸術系の人たちがやっているように、そういう考え方を理解してくれるパトロンのいる場所(私立大学とか、大金持ち個人の主催する研究所とか)に逃げ込み、生き延びる戦略を考えるべきだと思う。「こんなことじゃ日本はどうなっちゃうんだ」みたいなことを言うのが、一番見苦しい。どうなっちゃうもこうなっちゃうも、内田教授みたいな人が減って100円ショップが増えるというだけのことでしょうが(笑)>
「内田教授みたいな人が減って100円ショップが増える」という表現はうまい。現実の可能性としては、たしかにこれがいちばんありそうに思う。
しかし私としては、欲張りかもしれないが、両方重要だし、それぞれ面白いという認識が広まって欲しいと思っている。
なんとかして両方のいいとこ取り、「or」でなく「and」戦略で行けないか。
つまり、「内田教授の100円ショップ」路線だ(笑)。
ほんとうに教養や芸術が価値あるものなら、それをなんらかのスキルやビジネスに載せれば、付加価値になるはずなのだ。
その両方のバランス、結合の仕方を教えてくれる大学があったら、面白いと思う。
もし私が「クビダイ」の学長を任されたら、そういう大学にしたい。
私なら「クビダイ」をこうする!というのを、みんなで考えてみると面白いかも。
どんな学部を作って、誰を学部長にするかとか、考えるだけで楽しい。