2005.07.08
今の人たちは、家を背負っているようなもの - 木村尚三郎
インターコミュニケーション』最新号(No.53 特集「新教養零年」)の巻頭にある、木村尚三郎(西洋史)+村上陽一郎(科学史)の対談「基礎体力としての教養」が面白い。

木村尚三郎の発言からいくつか印象的なものを引用してみる。

<今は「先の見えない時代」であって、技術文明が私たちの目・耳・鼻・口・手足に幸せを実感させてくれることがなくなった時代です。コンピュータの世界は発展していますが、残念ながら五感に訴えかける要素は少ない>。

<それで、本物を求めて年間7億人弱の人が世界旅行をしているわけです。(中略)「二一世紀最大の産業はツーリズム(観光)産業である」とWTO(世界観光機関)が言っています。人、もの、皆動く今日のような時代というのは、悪い時代なんですね。本当にいい時代ですと、「一所懸命」に畑仕事をするとか、あるいは一つの会社を勤め上げるわけです。そういうときは定年までの世界が見えているから、一つの所にじっとしているわけです。しかしこれから先の世の中がどうなるかわからない、会社だってなくなるかもしれないし、自分が本当に自己実現できるかどうかわからないというときには、やはりあれこれと考えますよね。もっと他にいい勤め先はないか、あるいは辞めて自分で仕事を起こすか、というようにいろいろなことを考えるわけです>。

<それは世の中が不安な時代ということで、決していい時代ではない。こういうときは皆、動きながら考えるわけですね。この「動きながら考える」ということは、これまでの百年間にはなかった。学者も実業家も椅子に座ってテーブルの前で、学問あるいは世界戦略を考えてきました。しかし今はそのこと自体が非常に不安であって、若者たちはパソコンを見つめていながらもその一方で、イヴェントや祭りなど、人と一緒にワイワイやっている姿をチラチラと考えている。要するに、一つの所に心が定住できないで、あちこち動いているわけですね>。

<今の人たちは、パソコンを持ち、携帯電話を持ち、ペットボトルを持ち、弁当を持ち、化粧道具から薬まで、言わば家を背負っているようなもので、動きながら生きているわけです。日本はアフリカの砂漠の真ん中ではないんですから、ペットボトルなど持たなくても死ぬわけではない。携帯を持つのも、ふつうは親の死に目に会えないから、といった緊急のためではない。ですけれども、「歩きながら」水を飲んだり、「歩きながら」電話をかけるということが、今は「安心」なんですね。新聞も家で読むよりは満員電車で読むほうが心が落ち着く。逆に言うと、家にじっとしているのが非常に不安だということです。常時動きながら暮らしているわけです。「動き」という要素を、ありとあらゆるところで考えなくてはいけない時代が、今到来しています>。

ここに引用したのはほんの一部で、まだまだ面白い話がたくさん出てくる。

いろいろ納得できない部分もあるにせよ(なぜ動くのが「悪い」のか、など)、インスピレーションを受ける部分がたくさんある。ペットボトルや携帯を持ち歩くのが「家を背負っているようなもの」という描写には、鮮烈な印象を受けた。いまの日本を、世界史的な視野から一瞬でとらえたような感じだ。

あと「本物を求めて、観光に行く人が増え、今世紀最大の産業はツーリズムになる」という話も面白い。私も、「観光」にはとても可能性があると思っている。

対談の最後のほうにあるやりとりも、とてもいい。

木村:本当は、「information」という言葉の中には「form = 形」という単語が入っているわけで、「形のないものを形にする = アンフォルメ(informer)」というフランス語から出た言葉ですからね。例えば、気圧、湿度、温度、風速といったデータを集めて「明日は晴れる」「明日は雨」という、意味のあるものにまとめあげていくということが本当の「information」であって、それを誰がやるのかというと自分でやらなくてはいけないという時代が現代です。ですから、情報化社会だからといってたくさんのイヤホンを耳につけていろいろなものを聞けばいいかというと、そうではないんですね。

村上:耳に入ってくるものから自分でどうやって作り上げるか、ということですね。自分の実になるように、自分のあるいは周囲の幸せのために作り上げていく、その力ですよね。

木村:それが「生きる力」ですね。それはやはり、自分自身でそういう自分を作り出していかなくてはいけない。ドイツ語で「教養」という意味である「ビルドゥング(Bildung)」という言葉はそこから来ているんでしょうね。自分で自分を作る時代が来ているんではないでしょうか。

<自分で自分を作る時代>というのは、まったく正しいと思う。