なまえとタイトル
先日の「ファイル名はなくてもいいかもしれない」に対して、とても面白い反応があった。
:: H & A :: blog - 名前はどうなる?
http://handa.ifdef.jp/2005/12/blog-post_113444397227420408.html
伊藤ガビンさんの「先見日記 Insight Diaries : 名刺には名前が書いてあります」と、
私の「ファイル名はなくてもいいかもしれない」を並べて、このように書かれている。
<まずは会社名と名前とEメールアドレスだけが書かれることになりそうな伊藤ガビンさんの名刺を想像してみたら、なんだかやたらとカッコよくなりそうな気がします。メディアの先端にいる人たちにとって、自分を示すために必要な情報がとても少なくなっていることが良く分かります。
極端なことをいえば、自分のことをウェブで検索してもらう糸口さえ示せばいいのだから、名前だけでもいいのかもしれません。
なんてことを考えていると、mojix さんが、名前はなくてもいいかもしれない、なんておっしゃる。まぁこれは人物の名前のことじゃなくてファイル名のことなんですが>。
そしてiTunesやmixiなどの例を挙げながら、最後に
<人の名前の意味はどんどん希薄になっていくのかもしれません>
と結ばれている。
私はこれを読んで、何か不思議な感じがした。
私は、名前やネーミングにこだわる。
自分のブログに「なまえ」カテゴリを作っているくらいだ。
名前やネーミングはとても重要なもので、人の名前も重要なものだと思う。
しかしたしかに、「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という私が書いたエントリは、
ファイル名はいらないのではないか、という趣旨だ。
名前は重要だと考える私が、なぜファイル名は不要だと考えたのか?
やはり名前はどうでもよかったのだろうか。
これが、「不思議な感じ」がした理由だ。
私は、自分自身で矛盾したことを考えたのだろうか。
しばし考えた結果、私は
<ファイル名は、「なまえ」ではない>
という結論に達した。
なぜそう考えたのか、書いてみたい。
■人の名前と、ファイル名の違い
人の名前は、「ジョン」とか「ひろし」とか、そういうものだ。
しかし、ファイルに対して「ジョン」とか「ひろし」とかいうファイル名をつける人はいない。
つまり、人の名前とファイル名では、そのネーミングの動機や規則が根本的に違う。
ファイル名はたいてい、「Zopeセミナー資料.pdf」みたいなものだ。
それは多かれ少なかれ、ファイル内容の「説明」になっている。
ここが、「ジョン」とか「ひろし」とかと決定的に違うところだ。
つまりファイル名は、ファイル「名」ではあるが、そのネーミングの規則は、むしろ「タイトル」に近い。
それは「説明的」であり、それ自体が固有名詞ではなく、意味のある一般概念の羅列になっている。
■なまえは識別的、タイトルは説明的
なまえの機能とは、対象を「指す」ことだ。
あらゆるものの中で、その対象を他のものから「識別」する。
ここでは、なまえという記号と、それが指す対象が、「直接」結びついている。
その結びつきは、なまえをつけた人が1人で決めたもので、
社会的に共有された「意味」はそこに入り込まない。
よって、なまえは対象を「指す」だけで、「説明」はしない。
これに対してタイトルは、対象の「短い説明」だ。
そこには「意味」を持った一般概念が使われている。
それを読んだだけで、対象の「内容」がざっとわかるのだ。
タイトルは、その対象を圧縮した「ミニチュア」であり、「縮図」といってもいい。
「はてなブックマーク」などを見れば、タイトルがその対象の内容を「説明」していることがあらためて確認できる。
なまえも、タイトルも、それをつけるのは対象の「所有権」を持っている人だ。
ただし、その「動機」が違う。
なまえをつける動機は、対象を指し、「識別」することにあるのに対し、
タイトルをつける動機は、対象を「説明」することにある。
「動機」が違うので、「作り方」も違ってくるのだ。
■識別的なネーミング、説明的なネーミング
「ネーミングにおけるブルーオーシャン戦略」で書いた話だが、会社の名前では、私は独自性の高い社名が好きだ。
独自性の高い社名とは、「ヤフー」や「グーグル」みたいな社名だ。
そこに一般概念が含まれておらず、「意味」がない。
独自性が高い社名は、他の会社からの「識別」性が高く、「識別的なネーミング」といえる。
逆に、独自性の低い社名とは、例えば「情報」「システム」「サービス」「ソフト」みたいな単語を組み合わせたような社名だ。
それは「意味」を持った一般概念だけでできている。
独自性が低い社名は、他の会社からの「識別」性よりも、事業内容の「説明」性を優先しており、「説明的なネーミング」といえる。
私は独自性の高い社名、「識別的なネーミング」のほうが好きだが、「説明的なネーミング」にもメリットがあることは理解できる。
説明的な名前が有利なのは、床屋や八百屋のように、商圏が比較的狭い、一定範囲の住居地域ごとにあるような商売だろう。エリアをぐっと絞れば、床屋や八百屋の競合が少なくなるので、独自の名前による識別性よりも、機能の説明性がまさってくる。近くの住民が、その床屋や八百屋を「床屋」や「八百屋」としてしか認識しておらず、店名を知らないという例はきっと多いだろう。
説明的な名前をつけるのは、このように商圏を絞って、身近な人にサービスするような会社をめざす場合はいいかもしれない。逆に、より大きな商圏で、たくさんの人を相手に、たくさんの同業会社とサービスを競うような場合は、識別的な名前のほうがいいと思う。
■わたしたちが「なまえ」をつけるのはどんな対象か
ここでは、「なまえ」という語を、「識別的なネーミング」の意味で用いている。つまり「なまえ」は、説明的な意味を含まない名前、いわゆる「固有名詞」であり、基本的に1つしかない対象に対して固有に与えられたものとする。
すべてのものが、この「なまえ」を持っているわけではない。机の上にある1つのボールペンには、「なまえ」はない。「ボールペン」は、その対象が属するカテゴリーの名で、その1つのボールペンに対して独自に付与された「なまえ」ではない。
同じように、家にあるコップの1つ1つにも、「なまえ」はない。こうして考えると、わたしたちの身の回りにあるほとんどの物体には、固有の「なまえ」はないのだ。「なまえ」があるもののほうが少ない。
では、独自の「なまえ」を持っているのは、どんな対象だろうか。
わたしたちが「なまえ」をつけるのは、「独立した存在」と見なされるもの、「かけがえのないもの」であり、基本的に「1つしかないもの」だ(だから「固有」名詞)。
身の回りのノートやハサミ、けしごむなどに、「ジョン」とか「ひろし」とかいちいち名前をつけている人はいない。それは床屋や八百屋と同じで、その対象が属するカテゴリーの名前(「ノート」「ハサミ」)が、その機能をあらわす一般概念になっており、それを「名前のかわり」に使っている。それは、1つ1つの実体がそれほど貴重ではなく、「替えがきく」ものなので、機能をあらわす一般概念(普通名詞)だけで十分で、それ以上に個別の実体のために専用の名前(固有名詞)を付与する動機がないのだ。
これに対して、人間やペット、会社、国や地域などの場合は、1つ1つの実体に名前をつける。これは、それらが1つしかない「かけがえのないもの」であると同時に、実際上は、いろいろな場で識別性を求められるからでもある。
「かけがえのないもの」というよりも、「識別性」によって名前をつけられる例としては、コンピュータがある。コンピュータを1台しか持っていない場合は「うちのパソコン」で十分かもしれないが、何台にもなってくると、名前が必要になる(それは人間の都合という以上に、ネットワーク技術上の要件なのだが)。それでもまだ数が少ないうちは、「デスクトップ」「ファイルサーバ」「DBサーバ」など、その機能などを名前の代わりにして済ませることもできるが、多くなってくるとそれもできなくなり、特定の実体を直接指す「なまえ」のほうが良くなる。そして、コンピュータの「なまえ」として使われることが多いのは、やはり人名や地名などの固有名詞なのだ。
■タイトル的な名前
固有の「なまえ」を持っていなくても、それぞれを区別したい場合がある。
ノートの場合、よく表紙に「英語ノート(2005.12~)」などと書いて、そのノートの内容をあらわす。このとき、「英語ノート(2005.12~)」という記号は、そのノートの「タイトル」だ。そのノートの内容を説明している。
同時に、それは他のノートからそのノートを区別する「識別子」でもあって、ゆえに「名前」でもある。
このように、固有の「なまえ」(固有名詞)ではないが、「タイトル的な名前」というものがある。それは説明的な意味を含んでいるので「タイトル的」だが、同時に識別子としての機能を持ち、個体を識別する名前である。
ファイル名とは、まさにこの「タイトル的な名前」だと思うのだ。
それは対象の意味的な説明であると同時に、識別子になっている。
同じような例では、プログラムで使う「変数名」というものがある。クラス名や関数名などのネーミングは、その機能を「説明」するものがいいと言われる。その動機・命名規則は、まさに「タイトル的な名前」だ。
■対象が多すぎると、タイトル的な名前は機能しない
「タイトル的な名前」の役割とは、その中身をあけてみなくても、その内容がわかるという「説明」機能だ。
これはいわば「目視サーチ」だ。たくさんの対象をざっと眺めて(これが「ブラウズ」)、欲しいものや面白そうなものがどこにあるかを見つけたいとき、「タイトル的な名前」はその役割を果たす。
しかし、「ざっと眺める」ことができないほど対象の量が多くなってくると、これは破綻してくる。
その理由は、
1) 目視では、時間がかかりすぎる
2) タイトルだけでは内容を特定できない
の主に2つだろう。
「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という話が出てくるのも、まさにこの状況だ。ファイルが多すぎて、どこにあるかわからなくなるような状況では、ファイル名の「説明」機能がそもそも果たせない。
そしてこれこそが、インターネットにおいてサーチやタグが浮上してきた理由なのだ。
これは重要なトピックなので、あらためて別エントリで書きたい。
■おわりに
以上、かなり長くなってしまいましたが、私にとって重要なテーマだったので、思いきって書いてみました。
少しでも刺激になるところがあれば幸いです。
これを考えるきっかけを与えてくれたのは「名前はどうなる?」というエントリだったわけで、これを書いてくれたH & Aさんにあらためて感謝します。
アップデート (12/18) :
続編の「なぜネットではディレクトリが敗れ、サーチとタグが勝利するのか」を書きました。
:: H & A :: blog - 名前はどうなる?
http://handa.ifdef.jp/2005/12/blog-post_113444397227420408.html
伊藤ガビンさんの「先見日記 Insight Diaries : 名刺には名前が書いてあります」と、
私の「ファイル名はなくてもいいかもしれない」を並べて、このように書かれている。
<まずは会社名と名前とEメールアドレスだけが書かれることになりそうな伊藤ガビンさんの名刺を想像してみたら、なんだかやたらとカッコよくなりそうな気がします。メディアの先端にいる人たちにとって、自分を示すために必要な情報がとても少なくなっていることが良く分かります。
極端なことをいえば、自分のことをウェブで検索してもらう糸口さえ示せばいいのだから、名前だけでもいいのかもしれません。
なんてことを考えていると、mojix さんが、名前はなくてもいいかもしれない、なんておっしゃる。まぁこれは人物の名前のことじゃなくてファイル名のことなんですが>。
そしてiTunesやmixiなどの例を挙げながら、最後に
<人の名前の意味はどんどん希薄になっていくのかもしれません>
と結ばれている。
私はこれを読んで、何か不思議な感じがした。
私は、名前やネーミングにこだわる。
自分のブログに「なまえ」カテゴリを作っているくらいだ。
名前やネーミングはとても重要なもので、人の名前も重要なものだと思う。
しかしたしかに、「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という私が書いたエントリは、
ファイル名はいらないのではないか、という趣旨だ。
名前は重要だと考える私が、なぜファイル名は不要だと考えたのか?
やはり名前はどうでもよかったのだろうか。
これが、「不思議な感じ」がした理由だ。
私は、自分自身で矛盾したことを考えたのだろうか。
しばし考えた結果、私は
<ファイル名は、「なまえ」ではない>
という結論に達した。
なぜそう考えたのか、書いてみたい。
■人の名前と、ファイル名の違い
人の名前は、「ジョン」とか「ひろし」とか、そういうものだ。
しかし、ファイルに対して「ジョン」とか「ひろし」とかいうファイル名をつける人はいない。
つまり、人の名前とファイル名では、そのネーミングの動機や規則が根本的に違う。
ファイル名はたいてい、「Zopeセミナー資料.pdf」みたいなものだ。
それは多かれ少なかれ、ファイル内容の「説明」になっている。
ここが、「ジョン」とか「ひろし」とかと決定的に違うところだ。
つまりファイル名は、ファイル「名」ではあるが、そのネーミングの規則は、むしろ「タイトル」に近い。
それは「説明的」であり、それ自体が固有名詞ではなく、意味のある一般概念の羅列になっている。
■なまえは識別的、タイトルは説明的
なまえの機能とは、対象を「指す」ことだ。
あらゆるものの中で、その対象を他のものから「識別」する。
ここでは、なまえという記号と、それが指す対象が、「直接」結びついている。
その結びつきは、なまえをつけた人が1人で決めたもので、
社会的に共有された「意味」はそこに入り込まない。
よって、なまえは対象を「指す」だけで、「説明」はしない。
これに対してタイトルは、対象の「短い説明」だ。
そこには「意味」を持った一般概念が使われている。
それを読んだだけで、対象の「内容」がざっとわかるのだ。
タイトルは、その対象を圧縮した「ミニチュア」であり、「縮図」といってもいい。
「はてなブックマーク」などを見れば、タイトルがその対象の内容を「説明」していることがあらためて確認できる。
なまえも、タイトルも、それをつけるのは対象の「所有権」を持っている人だ。
ただし、その「動機」が違う。
なまえをつける動機は、対象を指し、「識別」することにあるのに対し、
タイトルをつける動機は、対象を「説明」することにある。
「動機」が違うので、「作り方」も違ってくるのだ。
■識別的なネーミング、説明的なネーミング
「ネーミングにおけるブルーオーシャン戦略」で書いた話だが、会社の名前では、私は独自性の高い社名が好きだ。
独自性の高い社名とは、「ヤフー」や「グーグル」みたいな社名だ。
そこに一般概念が含まれておらず、「意味」がない。
独自性が高い社名は、他の会社からの「識別」性が高く、「識別的なネーミング」といえる。
逆に、独自性の低い社名とは、例えば「情報」「システム」「サービス」「ソフト」みたいな単語を組み合わせたような社名だ。
それは「意味」を持った一般概念だけでできている。
独自性が低い社名は、他の会社からの「識別」性よりも、事業内容の「説明」性を優先しており、「説明的なネーミング」といえる。
私は独自性の高い社名、「識別的なネーミング」のほうが好きだが、「説明的なネーミング」にもメリットがあることは理解できる。
説明的な名前が有利なのは、床屋や八百屋のように、商圏が比較的狭い、一定範囲の住居地域ごとにあるような商売だろう。エリアをぐっと絞れば、床屋や八百屋の競合が少なくなるので、独自の名前による識別性よりも、機能の説明性がまさってくる。近くの住民が、その床屋や八百屋を「床屋」や「八百屋」としてしか認識しておらず、店名を知らないという例はきっと多いだろう。
説明的な名前をつけるのは、このように商圏を絞って、身近な人にサービスするような会社をめざす場合はいいかもしれない。逆に、より大きな商圏で、たくさんの人を相手に、たくさんの同業会社とサービスを競うような場合は、識別的な名前のほうがいいと思う。
■わたしたちが「なまえ」をつけるのはどんな対象か
ここでは、「なまえ」という語を、「識別的なネーミング」の意味で用いている。つまり「なまえ」は、説明的な意味を含まない名前、いわゆる「固有名詞」であり、基本的に1つしかない対象に対して固有に与えられたものとする。
すべてのものが、この「なまえ」を持っているわけではない。机の上にある1つのボールペンには、「なまえ」はない。「ボールペン」は、その対象が属するカテゴリーの名で、その1つのボールペンに対して独自に付与された「なまえ」ではない。
同じように、家にあるコップの1つ1つにも、「なまえ」はない。こうして考えると、わたしたちの身の回りにあるほとんどの物体には、固有の「なまえ」はないのだ。「なまえ」があるもののほうが少ない。
では、独自の「なまえ」を持っているのは、どんな対象だろうか。
わたしたちが「なまえ」をつけるのは、「独立した存在」と見なされるもの、「かけがえのないもの」であり、基本的に「1つしかないもの」だ(だから「固有」名詞)。
身の回りのノートやハサミ、けしごむなどに、「ジョン」とか「ひろし」とかいちいち名前をつけている人はいない。それは床屋や八百屋と同じで、その対象が属するカテゴリーの名前(「ノート」「ハサミ」)が、その機能をあらわす一般概念になっており、それを「名前のかわり」に使っている。それは、1つ1つの実体がそれほど貴重ではなく、「替えがきく」ものなので、機能をあらわす一般概念(普通名詞)だけで十分で、それ以上に個別の実体のために専用の名前(固有名詞)を付与する動機がないのだ。
これに対して、人間やペット、会社、国や地域などの場合は、1つ1つの実体に名前をつける。これは、それらが1つしかない「かけがえのないもの」であると同時に、実際上は、いろいろな場で識別性を求められるからでもある。
「かけがえのないもの」というよりも、「識別性」によって名前をつけられる例としては、コンピュータがある。コンピュータを1台しか持っていない場合は「うちのパソコン」で十分かもしれないが、何台にもなってくると、名前が必要になる(それは人間の都合という以上に、ネットワーク技術上の要件なのだが)。それでもまだ数が少ないうちは、「デスクトップ」「ファイルサーバ」「DBサーバ」など、その機能などを名前の代わりにして済ませることもできるが、多くなってくるとそれもできなくなり、特定の実体を直接指す「なまえ」のほうが良くなる。そして、コンピュータの「なまえ」として使われることが多いのは、やはり人名や地名などの固有名詞なのだ。
■タイトル的な名前
固有の「なまえ」を持っていなくても、それぞれを区別したい場合がある。
ノートの場合、よく表紙に「英語ノート(2005.12~)」などと書いて、そのノートの内容をあらわす。このとき、「英語ノート(2005.12~)」という記号は、そのノートの「タイトル」だ。そのノートの内容を説明している。
同時に、それは他のノートからそのノートを区別する「識別子」でもあって、ゆえに「名前」でもある。
このように、固有の「なまえ」(固有名詞)ではないが、「タイトル的な名前」というものがある。それは説明的な意味を含んでいるので「タイトル的」だが、同時に識別子としての機能を持ち、個体を識別する名前である。
ファイル名とは、まさにこの「タイトル的な名前」だと思うのだ。
それは対象の意味的な説明であると同時に、識別子になっている。
同じような例では、プログラムで使う「変数名」というものがある。クラス名や関数名などのネーミングは、その機能を「説明」するものがいいと言われる。その動機・命名規則は、まさに「タイトル的な名前」だ。
■対象が多すぎると、タイトル的な名前は機能しない
「タイトル的な名前」の役割とは、その中身をあけてみなくても、その内容がわかるという「説明」機能だ。
これはいわば「目視サーチ」だ。たくさんの対象をざっと眺めて(これが「ブラウズ」)、欲しいものや面白そうなものがどこにあるかを見つけたいとき、「タイトル的な名前」はその役割を果たす。
しかし、「ざっと眺める」ことができないほど対象の量が多くなってくると、これは破綻してくる。
その理由は、
1) 目視では、時間がかかりすぎる
2) タイトルだけでは内容を特定できない
の主に2つだろう。
「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という話が出てくるのも、まさにこの状況だ。ファイルが多すぎて、どこにあるかわからなくなるような状況では、ファイル名の「説明」機能がそもそも果たせない。
そしてこれこそが、インターネットにおいてサーチやタグが浮上してきた理由なのだ。
これは重要なトピックなので、あらためて別エントリで書きたい。
■おわりに
以上、かなり長くなってしまいましたが、私にとって重要なテーマだったので、思いきって書いてみました。
少しでも刺激になるところがあれば幸いです。
これを考えるきっかけを与えてくれたのは「名前はどうなる?」というエントリだったわけで、これを書いてくれたH & Aさんにあらためて感謝します。
アップデート (12/18) :
続編の「なぜネットではディレクトリが敗れ、サーチとタグが勝利するのか」を書きました。