2005.12.18
なぜネットではディレクトリが敗れ、サーチとタグが勝利するのか
なまえとタイトル」の最後のほう、「対象が多すぎると、タイトル的な名前は機能しない」という項で、私は次のように書いた。

<「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という話が出てくるのも、まさにこの状況だ。ファイルが多すぎて、どこにあるかわからなくなるような状況では、ファイル名の「説明」機能がそもそも果たせない。
 そしてこれこそが、インターネットにおいてサーチやタグが浮上してきた理由なのだ。
 これは重要なトピックなので、あらためて別エントリで書きたい>。

このエントリは、この話の続きだ。


■インターネットという、「対象が多すぎる」世界

「対象が多すぎる」とは、この場合、「全部のタイトルをざっと眺める」ことすらできないくらい、対象が多い状況を指す。

インターネットが、この「対象が多すぎる」世界であることに疑問の余地はないだろう。

仮に、ネット上にある全ページのタイトルがどこかに列挙されているとしよう。
何か情報を探すとき、そのページのタイトルを「ざっと眺める」気になるだろうか。

ネット上にページがどのくらいあるか知らないが、タイトルを追うだけでも、おそらく一生かかっても終わらないはずだ。


■ディレクトリは、「タイトルの階層」

そのインターネットを、最初に整理しようとしたのが、ヤフーのディレクトリ(カテゴリ階層)だった。
人力で良いサイトを見つけ、人力でカテゴリ別に分けたのだ。

「ディレクトリ」とは、カテゴリという「説明的な一般概念」をツリー状に構成したという意味では、いわば「タイトルの階層」とも言える。

ひとつひとつのカテゴリが「タイトル」であり、人間はそれを「目視」し、その「意味」を理解しながら、階層を渡り歩くのだ。全体を一気に目視するのではなく、目視しながら渡り歩くにせよ、人力による「目視サーチ」、つまり「ブラウジング」であることには変わりがない。

しかしこの方式には、問題がある。単に面白いページを見つけて読んでみたいという、散歩的な目的にはそれでもいいが、特定のトピックについて調べたいときには、これでは時間がかかりすぎる。

たまたま、知りたいトピックがカテゴリにピッタリ一致し、充実した情報が見つかる場合もあるが、それはむしろ幸運な例外だろう。たいていは、まず知りたいものが階層のどこにあるかを探すのが困難で、仮に見つけたとしても、その階層に充実した情報が並んでいることも少ない。

そもそも、ディレクトリは作る側もたいへんだ。どんどん変化していくインターネットの上で、見る価値のある良いWebサイトに限定したとしても、それを人力で発見し、人力でカテゴリ分類すること自体、どうしても無理がある。

どんなにうまく分類したところで、サイトを訪れた人も、それを見つけるのが困難なのだ。ツリーの全体を一気に目視できるならまだしも、階層ごとにしか見れず、渡り歩かないと全貌が見えないのだから、なおさら困難だ。

作る側も、見る側も困難なもの、それがディレクトリだ。

■ディレクトリは、サーチの前に敗れる

人気を集めながらも、このように問題を抱えていた「ディレクトリ」は、その後「サーチ」の登場によって、その王座を譲り渡すことになった。その代表がもちろんグーグルだ。

「ディレクトリ」は、作成も維持も人力なので、コストがハンパではない。そのうえ、ネットはどんどん変わるので、ちゃんと維持することは事実上無理だろう。さらに、それを見る側も人力のブラウジングで探すのだから、とてもコストが高い。

これに対し「サーチ」は、ロジックやアルゴリズムで、キーワードごとに主要サイトのリストを自動生成する。特にグーグルはそのアルゴリズムが精緻で、見る側が最小の時間的コストで、最大の結果(欲しい情報が見つかる)が得られるよう、工夫されていた。

「サーチ」は「ディレクトリ」に比べて、作る側も、見る側も圧倒的にコストが低く、効果が高い。

「ディレクトリ」が「サーチ」の前に敗れたのは、いま考えると、ほとんど「科学的な必然」に思える。


■Web 2.0時代の到来、「タグ」の登場

さらに最近になって、「タグ」というものが出てきた。

Webの新傾向を総括する「Web 2.0」の中でも、「タグ」は代表的な技術要素の1つといっていい。

タグ機能のあるサイトの例:
del.icio.us(ソーシャルブックマーク)の「japan」タグ
flickr(写真サービス)の「japan」タグ
Etsy(手作りコミュニティ)の「japan」タグ

「タグ」とは、対象を既存のカテゴリのどこかに分類するのではなく、商品にタグをぶら下げるように、フリーワード(自由語句)を対象にいくつでもつけておく、というものだ。これによって、あとで「キーワードから引く」ことができるようになる。

「既存のカテゴリ」というのが、まさに「ディレクトリ」だから、タグもサーチ同様、「ディレクトリからの脱却」だと言える。

しかしタグは、「タイトル的」なものでもある。それは対象の内容を「説明」する語句を人力でつけるという点では、タイトルに似ている。

しかし違う点もある。タグはいわば、「タイトルを分解したもの」だ。対象の内容をあらわすものを人力で付与するところがタイトルに似ているが、あらかじめ語句の単位に分解されているところが違う。タイトルは、基本的に人間に対して意味を伝える「説明」機能しかないのに対して、タグはあらかじめソフトウェア処理を前提としており、サーチのように、特定のタグ(キーワード)から対象に辿りつくことを可能にしている。

その結果、タグは従来のカテゴリのような役割も果たすことになる。ただし、事前にカテゴリ体系を作っておく必要がないのと、1つの対象に複数のタグを結びつけられるところがカテゴリと異なる。


■サーチとタグの共通点

サーチとタグの共通点は、

1) 対象を分類しない
2) 対象を複数のキーワードに結びつける

の2つだろう。

1)の「分類」とは、あらかじめ存在するカテゴリ・ツリー(ディレクトリ)のどこかに、対象を位置づけることだ。サーチもタグも、ここから脱却している。

2)は、タグのほうは自明だと思うが、サーチも基本的にはこれをやっている。ただし、その仕組みが違う。


■サーチとタグの相違点

サーチとタグは両方とも、対象を複数のキーワードに結びつけるものだが、そのキーワードをどう作るかが違う。

タグ:
対象の作成者、あるいは対象をブックマークする人などが、キーワードを自分で(人力で)対象に結びつける

サーチ:
検索エンジンが、対象を「単語」に分解して、基本的にそのすべての単語をキーワードとして対象に結びつける

つまり、

タグは「対象を説明するキーワードを人力で作成」
サーチは「対象を分解してキーワードを自動的に作成」

という違いがある。

タグのほうが人力なので面倒だが、サーチに対して

1) 重要な単語だけをピックアップできる
2) 対象内に出現しない単語(サーチでは拾いようがない)を対象に結びつけられる
3) 全文検索(単語分解)ができる検索エンジンが不要

といったメリットがある。


■分類からキーワードへ

ディレクトリ・カテゴリ階層から、サーチやタグへという移行をひとことでいえば、

「分類からキーワードへ」

といったところだろうか。

ディレクトリ・カテゴリ階層が「分類」の技術で、
サーチやタグが「キーワード」の技術だ。

これは単に、時代や流行の変化ではなく、
科学的な真理を含んだ帰結だと思う。


■ネットの真理は、PCにも波及する

そして、「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という話は、まさにこの話とパラレルだと思うのだ。

インターネットで証明された真理はいずれ、イントラネット(企業内ネットワーク)や、
パーソナルコンピューティング(個人のPC環境)にも波及するだろう。

ネットでディレクトリが敗れ、サーチとタグが勝利するのなら、
1台のPCの中でもそうなるのは時間の問題だという気がする。