2009.04.18
世界認識の違いか、言語の使い方の違いか
私はいまから20年近く前、大学後半くらいから数年ほどのあいだ、分析哲学にハマっていたことがあった。専攻していたわけではなく、素人の愛好家として、その手の本をよく読んでいたに過ぎないのだが、「分析哲学を浴びた」と言ってもいいくらい、わりと熱心に読んでいた。そして、分析哲学と接したその数年の期間は、その後の私に少なからぬ影響を与えた(いま考えると、これがその後ITの世界に入ることにもつながっている。当時の私はコンピュータも持っておらず、ITと無縁の人間だった)。

当時、分析哲学のさまざまな本で読んだ内容はほとんど忘れてしまったのだが、私が好きだった哲学者、ルドルフ・カルナップの「世界の問題なのか、言語の問題なのかをはっきり区別する」というスタンスは、私の「物の見方」に大きな影響を与えた。

例えば、2人の人間の意見が割れているとする。Aは「神は存在する」と言い、Bは「神は存在しない」と言っている。このとき、通常であれば、AとBの意見は対立しているとされるだろう。しかし、本当にそうなのか。

「神」とか「存在」に関して、もしAとBの「言語の使い方」が同じ、つまり語の「意味」が同じであれば、AとBの認識は確かに食い違っている。しかし、「神」とか「存在」という語に関して、2人の「言語の使い方」が同じでなければ、AとBの認識が食い違っているのかどうかはわからない。

神の存在でなく、もっとわかりやすい、「日本はいい国だ」といった文でもいい。Aは「日本はいい国だ」と言い、Bは「日本はダメな国だ」と言っているとする。表面的には、2人の意見は対立しているが、ほんとうに認識のレベルでも対立しているかどうかは、わからない。ここで、「いい国」とか「ダメな国」という表現で、より具体的には何を言いたいのか、そして日本のどういう側面を指しているのかが、わからないからだ。

このように、語が指しているもの、語が実質的に意味しているものが不定な場合、文が表面的に食い違っているというだけでは、認識も食い違っているとは言えない。つまり場合によっては、文は表面的に食い違っているけれども、認識はそれほど食い違っていないこともある。考えはほぼ同じなのに、「言い方が違う」ような場合だ。

カルナップは、言語が何を意味しているかという「言語の問題」と、人間が世界をどう認識しているかという「世界の問題」を、はっきり区別した。それが「言語の問題」である場合は、そこをクリアして初めて、「世界の問題」に到達できるという立場だ。カルナップは、「言語の使い方」(語とそれが意味するものの集まり)を「言語的フレームワーク(linguistic framework)」と呼んだ。

言語と世界が違うなんて、あたりまえじゃないかと思う人がいるかもしれない。しかし、分析哲学という学問は大体において、こういう「あたりまえ」のことをしつこく考える傾向がある。実際、このカルナップ流の「言語と世界の区別」は、その後クワインによって批判され(『経験主義の2つのドグマ』)、分析哲学の大きな転回点のひとつになっている(私はこのクワインの議論を支持しないが)。

分析哲学のきっかけになったウィーン学団論理実証主義は、「なんかすごそうだけど、よくわからない」ような哲学、逆にいえば「よくわからないので、なんかすごそうだ」というような哲学、いわば「意味ありげな哲学」に、反対したところから出発している(ヘーゲルの難解な一節をバッサリ斬ったりしている)。つまり、分析哲学とは「意味を明確にする」ことが鉄則であり、価値であり、美学でもあるような哲学であって、よって「意味」とか「言語」というもののメカニズムをえんえん追求することになる(分析哲学は「言語哲学」と呼ばれることもある)。

その後、私は分析哲学から離れていき、それと入れ違いのような格好でITの世界に入っていったのだが、しかし今でも、「世界の問題なのか、言語の問題なのかをはっきり区別する」というカルナップ的な立場や、意味をできるだけ明確にしようとする分析哲学的な「美学」に対する共感が強い。

ネット上でも、毎日のように意見の衝突が見られるが、これを「世界認識の違いか、言語の使い方の違いか」という視点で見ると、認識そのものではなく、言語の使い方の違いに起因していると思えるケースが少なくない。


関連エントリ:
数学と科学の違い
http://mojix.org/2008/05/07/math_and_science
「AはBである」という文についての考察
http://mojix.org/2008/03/20/a_is_b
すべての言葉は一人歩きする
http://mojix.org/2006/01/29/225233