2009.07.28
「小さな政府」の考え方
私は「大きな政府」より「小さな政府」がいいと考える、「小さな政府」論者だ。

「大きな政府」とは、国の事業が大きいことであり、それにともなって税金も高くなり、国で働く人も多くなる。

これに対して「小さな政府」とは、国の事業が小さいことであり、それにともなって税金も安くなり、国で働く人も少なくなる。

「小さな政府」論とは、国の事業はなるべく小さくして、できるだけ民間に任せていく、という考え方だ。

国が事業をやる場合、国民はまず税金という形で、「代金」を「先払い」することになる。それがさまざまな間接コストや、(民間より高めの)人件費などに使われつつ、国によって事業が実行される。国は民間ではないので、この事業には「競争」がないし、その事業がうまくいったのかどうか、採算が取れたのかどうかの検証もあまりされない。

「国が事業をやる」ことの問題点は、

1) それが必要な事業なのかどうかが不明
2) それが必要な事業だとしても、その事業の内容や質、費用対効果が不明

の大きく2つだ。

もし民間の事業であれば、そもそも1)の場合、事業として成立しない。国の事業の場合、これでも赤字を垂れ流しながら、生き残ってしまう。

また民間の事業であれば、2)の場合、その事業の質が悪かったり、コストがかかりすぎていれば、そのうち潰れる。国の場合、これも生き延びてしまう。

民間の場合、存続する価値のないものは生き残れない。これが「市場」における、「自然界の掟(おきて)」だ。民間の会社はこの「自然」のなかで鍛えられ、世の中に必要とされる事業が、妥当な質や価格をともなって生き残っていく。市場に生き残っているのは、「存続する価値のあるもの」だけだ。

これに対して国の事業は、この「市場」の外にあるので、存続する価値がなくても生き残れる。「自然界の掟(おきて)」が通用しないのだ。1)や2)の問題を抱えていても、国会などで明示的に廃止されない限り、永遠に存続していく。そのコストは国民の税金で、永遠に支払われ続ける。使ってもいない公共料金が、死ぬまで引き落とされていくようなものだ。

国が無償で提供している行政サービスも、実際は当然コストがかかっている。その行政サービスが真に必要なものだとしても、民間で実現可能なものなら、上の2)の観点から、民間でやったほうが、質も生産性も上がる。これが「民営化」の考え方だ。

国がやっていた事業が民営化されれば、そのぶん税金は下げられる。そのサービスを必要としている人は、その浮いたお金で民間業者からサービスを買うことができる。国がやるより民間のほうがコストが安いので、価格も安くなっているはずだ。そのサービスが最初から必要なかった人は、民間業者からサービスを買う必要もなく、税金が下がったぶんトクをする。

「小さな政府」は、できるかぎり民間の「市場」を使い、競争原理によって質や効率を維持・向上させるので、存続する価値のないものは生き残れない。しかし「人」については、競争力の弱い人でも生き残れるように、「市場の外側」にセーフティネットをはる。「小さな政府」を代表する論者の1人、ミルトン・フリードマンも「負の所得税」を提唱したが、「小さな政府」論者でも大抵の場合、このセーフティネットについては国の役割を認めている。

日本は明らかに「大きな政府」である。小泉・竹中の構造改革路線では「小さな政府」へ向かう動きがあったが、最近は完全に「大きな政府」志向に戻ってしまった。「大きな政府」で都合がいいのは、「大きな政府」から給料や権力を得る人だけであって、一般の国民は損をする。

「大きな政府」ができてしまうと、これを小さくするのはただでさえ容易でない上に、日本では「お上」依存体質がこれまで強かったためか、「大きな政府」の弊害があまり理解されていない。「税金をこれこれに使います」という「いい話」にすぐ騙されてしまうのだ。

税金を最も有効に使う方法は、そもそも税金を取らないこと、つまり減税すること、これ以外にありえない。そうすれば、そのお金を本人が自由に使える。

「大きな政府」を支持する人は、自分のお金を、自分よりも国のほうが有効に使えると考えているのだろうか。そうでないと筋が通らないと思う。


関連エントリ:
「小さな政府」、構造改革、経済成長路線の新党を待望する
http://mojix.org/2009/07/18/small_gov_party
問題を「解消」するという発想 なぜ政府を小さくすべきなのか
http://mojix.org/2009/04/13/mondai_kaishou