2010.03.03
人を信頼するとは、「行動原理」を信頼すること 「自由」「自律」「自立」は密接に結びついている
When you were young - 自由と自律
http://hiroshimo.wordpress.com/2010/02/28/autonomy/

<管理という言葉の反対には「自由」があります。前者は責任はとらなくていいから命令に対して動くことを要請します。後者は責任をとって自ら動くことを要請します。つまり「自律」とセットなわけです>。

<「自律」とは「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること」を言います。反対に「自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること」を「他律」と言います>。

<現実は圧倒的に他律社会です。だからこそ管理思考があらゆるところに偏在するわけです。そしてそれが空気を重たくして気詰まりでつまらない社会をつくっています>。

<つまり自由で風通しのいい気持ちのいい社会を作ろうとすれば、まず互いの信頼関係を作らなければならないということで、そのためには個人個人が自律的でなければならないというのが私の結論です>。

これはすばらしいエントリ。完全に賛同する。

人を信頼するとは、その人の行動を一定の期間見つづけて、そこにある「行動原理」を信頼することだ。

その人に一貫した行動原理があって、それがプラスの価値を継続的に生んでいるとき、今後もそうだろうという「期待」が生じて、それが「信頼」になる。好きなアーティストや小説家、お気に入りの店などに対する「信頼」は、みなそのようにできあがっている。期待を裏切らない実績・成果の積み重ねによって、「信頼」が形成される。

「律」とは「ルール」であり、行動原理である。そのルール、行動原理を自分のなかに持っていることが「自律」であり、自分のなかに持っていないことが「他律」である。

自分のなかに行動原理を持っていない人、「他律」的な人は、その場その場で支配的な力にかんたんに屈し、それと一体化する。よって行動に一貫性がないので、「期待」が成立せず、「信頼」ができない。

自分のなかに行動原理を持つこと、つまり「自律」のためには、「自由」が必要である。「イエス」だけでなく「ノー」と言える必要があるのだ。納得できないことに「ノー」と言えることが「自由」である。

そして、この「自由」を確保するには、意志や信念だけでなく、「自立」も必要になる。要するに「カネ」だ。ベンジャミン・フランクリンは「カラの袋は立たない(An empty bag cannot stand upright)」と言った。カネがなければ「ノー」と言えなくなるので、「自由」が保てないわけだ。福沢諭吉の「独立」も、スマイルズ中村正直の「自助」も、同じような話である。

「自由」と「自律」、そして「自立」(あるいは「独立」)は、密接な関係がある。リバタリアニズムが、政治的な自由(精神・行動の自由)と経済的な自由(カネ、財産権)を両方重視するのは、そのためだ。詳しくは、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』を読んでみて欲しい。


関連エントリ:
「思考の一貫性」に対する信頼
http://mojix.org/2009/12/13/thought_trust
「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
http://mojix.org/2009/08/13/kuuki_sekinin
群集がいつも賢いとは限らない 「Wisdom of Crowds」の成立条件
http://mojix.org/2006/01/14/100147