2009.08.13
「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
菊澤研宗のブログ ダブルKのブログ - 「空気」という言葉で逃げるべきではない
http://kikuzawa.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-fb77.html

<NHKが流した海軍反省会でのテープで話しているのは、海軍でもある程度の地位のあった人々だ。その会話でやたらに出てくる言葉があった。それは、山本七平が使った「空気」という言葉だ。
 この「空気」という言葉は、見えていないものでも存在しているのだということを表すのに、あるいは言葉では表せないものを表せるメタファーとして、非常に印象的な言葉であった>。

<「海軍にはそういった空気があった」「そういった空気では本心がいえないのだ」「そういった空気があったので、それはだめだといえなかった」・・・・・
 結局、すべて「空気」のせいにしているのだ。私は、そうではないだろうと言いたくなった>。

<あなたたちのような頭脳明晰な人たちが計算していないわけがないのだ。コスト・ベネフィットを計算し、マイナスになるから、話さなかっただけ。空気なんかではない。合理的計算の結果であり、コスト・ベネフィットを計算した結果、その結果、損するから、反対しなかったし、声をあげなかったのであって、決して「空気」のせいではない>。

<私もある会議で経験したことがある。「空気」ではない。結局、自分がかわいいのだ。ここで反対すると、自分が損するし、いやな思いがするし、そのコストを無視してまで発言する「勇気」がないのだ。他律的に行動した方が楽なのだ。自由意思にもとづいて反対し、正論を語り、自律的に反対する勇気がないのだ>。

まったく同感。「空気」のせいにするのは、自分が責任をとりたくないからなのだ。

そして、日本では個人の側に「責任をとりたくない」傾向があるだけでなく、組織の側にも「個人に責任を取らせない」傾向がある。責任を「個人」に帰属させることが回避されてしまい、「空気」のなかに責任が拡散してしまうわけだ。

先日「アメリカ人は「希望駆動型」、日本人は「危機感駆動型」」というエントリで紹介した竹中正治『ラーメン屋vs.マクドナルド』でも、この日本の弱点は指摘されていた。<問題状況は漠然とした危機感として拡散し、「危機だ。総員奮起して頑張れ!」という毎度の陳腐なお題目に行き着いてしまう>。

「責任」と「自由」は表裏一体のものだから、個人に「責任」を帰属させない以上、個人には「自由」も与えられない。これは会社のレベルでもそうだし(「なぜ日本の成果主義は失敗するのか 「責任がなく、権限もない」個人という日本の縮図」)、国や産業のレベルでもそうだ(中央集権、護送船団方式)。日本ではいたるところで、「個人が責任を取る」ということが回避され、責任がうやむやにされるという場面を多く見かける。

「責任」と「自由」が与えられない立場の典型は、子供だ。子供は大人のように自立して生きていく力がないので、「自由」が与えられないかわりに、「責任」もない。

日本の場合、大の大人であっても、「責任」と「自由」が与えられていない。それは国が国民を「子供扱い」しているからだし、また国民の側もその境遇に慣れてしまい、「子供でいたい」ように見える。

国が国民を「子供扱い」すること、これこそ文字通り「パターナリズム(家父長主義、温情主義)」である。日本国民が政府のパターナリズムをすんなり受け入れてしまうのは、自分で「責任」を取るから「自由」を寄こせ、という「独立」の精神を持つ人がまだ少数派で、「責任」を取るくらいなら「自由」を失ってもいい、という人が多数派だからだろう。


関連エントリ:
アメリカ人は「希望駆動型」、日本人は「危機感駆動型」
http://mojix.org/2009/07/31/us_kibou_jp_kiki
なぜ日本ではブラック会社が淘汰されないのか 日本は雇用の流動性が低いから、労働者の価値が低い
http://mojix.org/2009/07/09/why_black_company
なぜ日本の成果主義は失敗するのか 「責任がなく、権限もない」個人という日本の縮図
http://mojix.org/2009/05/12/japan_seikashugi
問題を「解消」するという発想 なぜ政府を小さくすべきなのか
http://mojix.org/2009/04/13/mondai_kaishou