2010.10.22
自由と形式は対立しない
自由と形式は対立しない。

自由とは「形式がない」ことではないし、「形式を拒否する」ことでもない。形式を自らの意思で用いることは「強制」ではない。

すぐれた形式が普及するのは、その形式が強制されるからではなく、その形式が有用なので、自らの意思で用いる人が増えるからである。

数学、ゲーム、インターネット技術などは、こうした「すぐれた形式」の例である。

1+1を3だと主張することは自由であり、犯罪にもならない。

しかし、1+1を3だと考えるような独自の体系を使っても、何も生産的な結果が出て来ないだろう。

野球の「スリーアウト」というルールに納得できず、3回ではなく10回のアウトで交代する「テンアウト」を提唱する人がいたとする。このように主張することは自由であり、犯罪にもならない。

しかし、「テンアウト」にもとづくその新しい野球に、人々をひきつけることはむずかしいだろう。

インターネットで用いられている、HTTPやDNSといった技術に不満で、独自の技術を生み出した人がいたとする。このような技術を作ったり、用いることは自由であり、犯罪にもならない。

しかし、その新しい技術が有用であることを人々に納得させ、人々に使ってもらうことはむずかしい。

こういった例からわかることは、人々が使いたくなるような「すぐれた形式」をあらたに生み出すことはむずかしい、ということだ。

しかし、むずかしいけれども、そうすることがつねに「自由」である、ということが重要である。そのむずかしい挑戦こそが、「イノベーション」を生み出す。

数学も、ゲームも、インターネット技術も、最初は誰かが勝手に作ったのであり、しばらくは誰にも相手にされなかっただろう。しかし、それが有用だったり、おもしろいということが少しずつ理解されていき、普及していった。この普及のプロセスには、「強制」はどこにもない。それを有用だと思わない人は、それを使わなくてもいいし、別のものを自分で生み出してもいい。

すぐれた形式は、なんら「強制」することなく、そのような「自由」な場において勝ち残っていくものだ。


関連エントリ:
ルールと法則の違い
http://mojix.org/2008/05/26/rule_and_law
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