2008.05.26
ルールと法則の違い
ルールは「守るもの」であり、法則は「成り立つもの」だ。

ルールは「人為的な取り決め」であり、法則は「現実から浮かび上がってきた規則性」だ。

■ ルールとは何か

ルールを守ることは、そのルールに依存して成り立つ世界に「参加する資格」だ。
ルールを守れない人は、その世界に参加できない。

「3振でアウト」「スリーアウトでチェンジ」といった野球のルールを守れない人は、野球に参加できない。
桂馬や飛車などの駒の動き、「2歩は負け」といった将棋のルールを守れない人は、将棋に参加できない。

「1+1=2」という数学のルールを守れない人は、数学を使うことができない。
「1+1が3にも4にもなる」といったフレーズは、メタファーとしてはいいとしても、それはもはや数学ではない。

日本語などの「言語」も、数学同様に「ルールで構成される世界」だ。「月曜日」という語で火曜日のことを指し、「火曜日」という語で月曜日のことを指すような、勝手な言語体系を用いることは可能だが、それはもはや日本語ではなく、「日本語というルール」を守っていない以上、日本語のコミュニケーションに参加することはできない。

■ 法則とは何か

いっぽう「法則」は、人為的なルールではなく、「現実が持つ性質」だ。これを発見するのが科学である。

法則や科学は、人為的なルールである数学や言語を使って記述されるが、それが語っている内容は、数学や言語そのものからは導けない「現実が持つ性質」である。

法則は「現実が持つ性質」なので、その法則が本当に正しいものならば、それを自ら「破る」ことはできない。ここがルールと違う。

ルールは「前提」なので、それが正しい、正しくないということには意味がない。
ルールは「受け入れる」か「受け入れない」かであり、受け入れる人には、そのルールによって成り立つ世界に参加する資格があり、受け入れない人には、参加する資格がない。どちらを選ぶのも自由だ。

法則は「現実が持つ性質」なので、それが語る規則性が成立しているのか成立していないのか、「正しい」か「正しくない」かが問題になる。

いったん法則が「正しい」こと、成立していることがわかれば、もはや「受け入れる」か「受け入れない」かという選択はありえない。自分も「現実」の一部であり、「現実の外側」はないからだ。

■ 社会のルール

ここまでの「ルール」は主に、数学や言語、スポーツやゲームなどのルールを指している。
「社会のルール」については、これとは性質が異なる面がある。

社会のルールは、「そのルールは受け入れられないので、その世界に参加しない」という選択肢がほとんど存在しない。別の国に行けば多少ルールが変わるが、必ずどこかに属さなければいけないという意味では、一種の強制力を持ったルールだ。

社会をゲームと見なせば、わたしたちはすでにこのゲームに放り込まれており、このゲームを拒否できない。つまり、ゲームのルールである「法」を拒否できない。

しかしこのゲームのルール、「法」はもちろん人為的に作られたものなので、ゲームの参加者が合意すれば、変えることはできる。

このルールを変える基準は、このゲームがより楽しく、面白く、快適になるかどうかだ。つまり、社会のルールを作ることはまさに「ゲームデザイン」なのだ。

■ ルールと法則の違い

ルールが人為的なものだという意味では、社会というゲームも、数学や言語、スポーツなどと同様、やはり人間が作ったものではある。

これに対して「現実」は、人間の働きかけによって変えることはできるものの、根本的には人為的なものではなく、まさに「自然」にほかならない。

これの成り立ちを理解するための人間の営為が「科学」であり、それを成立させているのが「法則」だ。

このように、「ルール」と「法則」は、ほとんどまったく違うものなのだ。


関連エントリ:
MIUゲームで「公理系」を理解する: 小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』
http://mojix.org/2008/05/25/miu_game
ヒュームの法則: 「である」から「べき」は導けない
http://mojix.org/2008/05/15/humes_law
数学と科学の違い
http://mojix.org/2008/05/07/math_and_science