2011.07.11
自己表現にも技術が必要
学校で、文章の書き方を教わった記憶がない。

もちろん国語の時間はあったし、作文も書かされたが、「どう書くか」の方法・技術は教わらなかったと思う。

絵もそうだ。美術の時間に絵を描かされたが、「どう描くか」を教わった記憶がない。

なぜ日本の学校では、文章の書き方や絵の描き方を教えないのか。その理由はおそらく、文章や絵というものが「自己表現」に属すると考えられているからではないだろうか。

「自己表現」に属するものだから、それは「個性」が生み出すもので、「方法」や「技術」とはなじまない、と考えられているのだろう。「個性」が一種の聖域になっていて、教育はそこに踏み込めないのだ。

たしかに、文章や絵といったものは芸術の領域に入ってくるので、完全に客観的な指標はない。よって「客観的な採点」はむずかしいし、画一的な学校教育にはなじまない面があるだろう。

文章や絵のようなものについて教えようとすれば、あるていど「主観的」にならざるをえない。つまり「主観的な教育」が必要なのだ。これが日本では許されないのだと思う(関連:「「主観恐怖症」の日本」)。

日本の学校教育は、「主観的な教育」を徹底的に避けて、「客観的な採点」ができる領域だけにとどまっている。文章や絵のような「自己表現」は、生徒の「個性」であり、「客観的な採点」ができない。だから全員の「個性」を尊重して、「方法」や「技術」は教えない、ということなのだろう。

しかし、この教育方針は間違っていると思う。文章や絵といった表現では、「客観的な採点」ができないのだとしても、「方法」や「技術」はやはりある。それを教えることは「個性」を否定することにはならず、むしろ「個性」をよりよく表現したり、伸ばすのに役立つのだ。

自己表現にも技術が必要である。個性と技術は対立するものではなく、技術によってこそ、個性にかたちを与えることができる。


関連エントリ:
「主観恐怖症」の日本
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu
学校教育には、正解/不正解ではなく「暫定的な答え」をバージョンアップしていく「仮説ドリブンアプローチ」が足りない
http://mojix.org/2009/03/09/hypothesis_driven_approach