2009.10.11
「主観恐怖症」の日本
ニューズウィーク日本版 - 政権交代でも思考停止の日本メディア(2009年09月28日)
http://newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2009/09/post-63.php

<トイレを修理してもらうために呼んだ業者にこんなことを言われたら、どうだろう。「うーん。ちょっと待ってください。セカンドオピニオンを聞かないと」。さらに悪いことに、医者にこう言われたら?「おかしな病気ですね。医者を呼んできます!」>

<8月30日の総選挙で民主党本部に詰めていたとき、私の頭に浮かんだのはこんなバカげた光景だった。日本のジャーナリスト5人に、次々と同じ質問をされたのだ。「政権交代をどう思いますか」>

<そういう疑問に答えるのが、ジャーナリストの役目ではないのか。そもそもそのために給料をもらっているのでは。その場に居合わせたイギリス人ジャーナリストが私に言った。「よくあんな質問に答えましたね。あんなものはジャーナリズムじゃない。日本の記者はただ騒いでいるだけ。今夜、この国が根本から変わったことを理解していない」>

少し前に出ていた面白いコラム。書いているのは、レジス・アルノーという仏フィガロ紙の記者。

<新聞の仕事は、今後の政治の見通しを読者に理解させること。そのためには、自らの立場を明らかにしなければならない。客観性を口実にどっちつかずの態度を取ることは許されない。八ッ場ダムの建設は中止するべきなのか。霞が関の「埋蔵金」はどこにあるのか。真に自立した外交政策は、どうしたら打ち立てられるのか>。

ここが核心だろう。日本のマスメディアは、「客観性を口実にどっちつかずの態度を取る」ことがむしろ望ましい、と考えているフシがある。もちろん、メディアごとに特色や立ち位置はいくらか違うが、できるだけ「オピニオン(意見)」ではなく「ファクト(事実)」に絞ろうという傾向が感じられる。

「オピニオン」ではなく「ファクト」に絞ろうとするので、「オピニオン」はその媒体の記者が直接書くのではなく、「誰かに言わせる」という形になる。専門家からコメントを取ったり、一般人の声を拾う。しかしその場合も、一方的な意見になるのを避けるために、しばしば「両論併記」される。

ファクトに絞って、専門家や一般人の声を拾い、両論併記するといった態度は、いわば「客観的になる努力」である。それでいいじゃないか、という見方もあるだろうが、これには弊害もある。例えば次のようなものだ。

1)つねに主観を封じるクセがつき、個性が発揮できず、育たない
2)自分で考えなくなり、ファクトや他者の意見を伝えるだけの役割になりやすい
3)実際は完全に客観的にはなりえないのに、客観性を装ってしまう

このうち1)、2)については、上記のコラムではこのように書かれている。

<日本の主流メディア「ムダ話党」は健在だ。朝日新聞編集委員の山田厚史など独自の見解をもつ一握りのジャーナリストをのぞく主流メディアを、私はムダ話党と呼んでいる。頭を使わずただ社会の動きを記録する監視カメラのようなものだ>。

<ムダ話党の意見はその場かぎり。記憶力もない。10分しか記憶できない金魚みたいなものだ。昨日まで官僚から情報を仕入れていたというのに、一夜明ければ「国民の敵」としてよってたかってたたく。「天下り」は今や金正日(キム・ジョンイル)やオウム真理教より憎まれている。会食の席で「私は官僚です」などと自己紹介したら、新型インフルエンザの患者みたいにぞっとされるだろう。「事務次官」なら、間違いなく八つ裂きだ>。

こうした行動原理は、マスメディアに限らず、日本人そのものにも見られる。いわば「主観恐怖症」だ。ほんとうは自分の「主観」があるのに、それを積極的に出すことを恐れ、できるだけ「空気」を読んで、場に合わせようとする。

マスコミでは、この「主観恐怖症」が大規模になる。いったんある流れ、「空気」ができてしまうと、どのメディアもいっせいにそれに乗るので、それが「世論」になってしまう。ライブドア事件が起きたとき、ホリエモンに対する扱いが一夜にして反転したのがいい例だろう。それまでチヤホヤされていた人が、いきなり集団リンチの対象になるのだ。

こういう「主観恐怖症」的な行動原理は、「主観を認めない」という評価基準と表裏一体のものだろう。もともとは誰もが天真爛漫な子供だったはずなのに、大人になるにつれて主観や個性を押さえ込むようになるのは、日本の社会で生きていくうちに、「主観や個性は押さえ込んだほうがいい」という経験則を叩き込まれるからだ。それが日本の「空気」なのである。

「主観恐怖症」は、自分の考えや意見をつねに押し殺していくので、自分の考えや意見を持つ必要もなくなり、<10分しか記憶できない金魚>になりやすい。自分の考えや意見を持つよりも、「場に同調する力」ばかり鍛えることになり、そのときに支配的な流れ、「空気」に対して同調し、付和雷同するだけの存在になっていく。個々の人間が自分なりの基準を持たず、「勝ち馬に乗る」「みんなと同じことをする」ことしか考えないような社会は、効率的な面もあるが多様性を欠くので、イノベーションが出にくくなるし、全体主義やファシズムに対しても脆弱である。

こうした「主観恐怖症」、日本的な「空気」から比較的自由なのは、海外の文化を知っている帰国子女や、人文系・芸術系の人たちなどだろう。「個性が評価される」「個性が強みになる」という評価基準、その「文化」を身をもって体験していれば、個性を発揮すること、主観を出すことに自信がつく。

海外でもフランスなどは特に、人文系・芸術系にめっぽう強く、「個性」が評価される文化だろう。上記コラムの自由闊達でユーモラスな書きっぷりにも、それがあらわれている。日本の大手新聞社の記者では、この書き方はちょっと考えられない。

フランスがどれくらい個性を重視しているかは、次のエントリを読むとわかる。

フランスの日々 - センター入試とバカロレアに見る日仏の違い
http://mesetudesenfrance.blogspot.com/2009/06/blog-post_23.html

フランスの大学入試(バカロレア)には「哲学」があり、次のような問題が出るという。

<La langage trahit-il la pensee?(言語は思考を裏切るか?)
 Est-il absurde de desirer l’impossible?(不可能を望むことは非合理か?)>

大学入試でこんな問題が出るなんて、日本では到底考えられない。「こんなもので合否を決められてはたまらない」と、非難ごうごうだろう。「客観的」でないからだ。

これについて、ブログ主のMadeleine Sophieさんはこう書いている。

<日本人の多くが受験するセンター試験では、正解が一つである問題が出題されますが、バカロレアでは以上のような正解のない問題が出題されます。正解のない問題に論理を用いて他者を説得する文章を書く能力が問われることになります>。

もう学校教育のレベルで、ここまで考え方に開きがあるわけだ。

日本の教育における「正解主義」に対して、もっと「仮説ドリブンアプローチ」が必要ではないかという話を以前書いたが、その話にも重なる。日本の教育における「正解主義」は「客観主義」でもあり、これが「主観恐怖症」につながっている。主体的な情報発信や思考、表現の訓練をせず、ただ受動的に暗記するだけなので、思考力や創造力が育たない。

日本の「主観恐怖症」は、日本人の「精神」そのものに根ざしているという以上に、教育や制度といった「構造」のレベルでも、その傾向を助長するように仕組まれている部分が少なくないように思う。


関連エントリ:
「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
http://mojix.org/2009/08/13/kuuki_sekinin
学校教育には、正解/不正解ではなく「暫定的な答え」をバージョンアップしていく「仮説ドリブンアプローチ」が足りない
http://mojix.org/2009/03/09/hypothesis_driven_approach
群集がいつも賢いとは限らない 「Wisdom of Crowds」の成立条件
http://mojix.org/2006/01/14/100147
「ユニークな能力」 と 「スタンダードな能力」
http://mojix.org/2005/12/19/070735