2012.12.28
日本を覆う「正解主義」という宗教みたいなもの
ダイヤモンド・オンライン : 石黒不二代の勝手に改革提言!ニッポンの新しい教育 - 元和田中校長・藤原和博さんがはじめた[よのなか]科が停滞する日本を救う?「正解主義、前例主義、事なかれ主義をぶっ壊せ!」――藤原和博氏×ネットイヤーグループ石黒不二代社長【前編】(2012年12月19日)
http://diamond.jp/articles/-/29630

<2003年、東京都内で義務教育初の民間人校長として杉並区立和田中学校校長に就任した藤原和博さん。和田中学では、クリティカルシンキングによって正解が1つではない世の中の問題を考える[よのなか]科を取り入れ、地域の人々や大学生が中心となって学習支援や部活動を行える地域本部を作ったり、土曜日に補習授業を行ったりと、学校のあり方を大きく変えていった。その改革の背景にあったのは、藤原さんが“敵”と語る「正解主義、前例主義、事なかれ主義」を壊すという思いだ。では、今の日本をダメにしてきた「正解主義、前例主義、事なかれ主義」とは一体何なのだろうか。そして閉塞感漂う日本を救うには、どのような教育に転換すればよいか。常に教育改革の先頭を走ってきた藤原和博さんに前編、後編に渡って新しい教育への思いを聞く>。

これはいい記事。対談なので読みやすく、藤原氏の主張がよく理解できる。

<そして、根本として一番おかしいのは、日本を覆う「正解主義」という宗教みたいなもの。今の日本には、「正解主義、前例主義、事なかれ主義」が三位一体になった典型的な学校文化があり、それが学校から滲み出して、社会を覆っていることが最も大きな問題ではないでしょうか>。

これはその通りだと思う。社会では、「正解」がない問題のほうが多い。しかし、学校ではひたすら「正解主義」しかやらない。学校と社会のあいだに大きなギャップがあるのは、たしかにこれが大きそうだ。

<でも、今産業界が求めているのは、人から与えられた選択肢の中から1つの正解を速く正確に当てる能力ではなく、すべての仮説を全部自分で設定し、実践して、どれが“納得解”か自分自身で作れる人材です。でも今の日本の教育は、情報処理力偏重で、正解主義。これからは、情報編集力に重きを置いて、修正主義にしていかないとダメ。日本が今、行き詰っているのは、民主党や自民党のせいじゃなくて、教育のせいですよ>。

根本的なことを言えば、たしかにそうかもしれない。しかし、これはそうとう根深い問題だろう。日本はいろいろなレベルで行き詰まっていると私も思うが、これはかなり根本的・長期的な課題にあたるものだろう。

ダイヤモンド・オンライン : 石黒不二代の勝手に改革提言!ニッポンの新しい教育 - 元和田中校長・藤原和博さんが語る日本をダメにした正解主義から脱出する方法「3000人の民間校長を誕生させよ!」――藤原和博氏×ネットイヤーグループ石黒不二代社長【後編】(2012年12月26日)
http://diamond.jp/articles/-/29916

<東京都内で義務教育初の民間人校長として杉並区立和田中学校校長を務めた藤原和博さん。対談前編では、閉塞感漂う日本を救うために、学校から社会に滲み出している「正解主義、前例主義、事なかれ主義」から脱却する重要性を語っていただいた。では、この3つの主義から抜け出すための改革を行うには、まず何から手をつければよいのだろうか。自ら学校現場に入り、改革を進めた藤原さんだからこそわかる、本当に日本の教育を変えるための処方箋を聞いた>。

こちらの後編では、学校を変えるために、民間校長をもっと増やす、という話をしている。

<政策変更に魂を吹き込むには、まず校長が変わらないといけません。今までのように教員からの純粋培養でポストにつく、あまり世の中を知らない校長では無理です。もちろん全部変えろと言っているわけではありません。特に都市部のようなクリティカルシンキングとIT、英語の3点セットを進化させるべき地域では、民間校長をもっと増やさなければいけないというのが僕の主張です>。

純粋培養はダメという話は、役人にも言える。役人でも、世の中を知らない人が、しばしば世の中のルールをつくっている。これは本人がダメというよりも、雇用の流動性がないことの弊害だろう。

<いま全国には小学校が2万校あり、中学校は1万校です。その中学1万校に3000人民間の校長をぶち込む。3割くらい入ると、周りも染まって変わると思うんです。これはもう動きが始まっています。現・大阪市長の橋下さんたちが府立学校と市立小中学校の校長公募を可能にする条例をつくったんです>。

<実は校長の人事は、文科省管轄ではありません。知事でも市長でもなく、教育長が人事の任命権を持っているんです。教育長とは、教育委員会事務局のトップで、今の日本の法律ですと知事の部下でもありません。私立学校を管轄する私学課は知事が管轄する知事部局にありますが、一方で公立の小中学校・高校は教育委員会事務局の管轄下に置かれています>。

<市町村も同じような構図で、教育長が小中学校の教員や校長の任命権を持っています。教育長が英断をすれば、民間人校長は誕生しますが、その対応を待っていると遅くなるということで、橋下さんが条例をつくって議会で通しました>。

<同じように大阪市の小中学校についても50人の空きポストを全数公募にしました。僕も手伝ってネットを使って派手に告知をしたのですが、民間から928名応募がきました。教頭先生も362人手を挙げたので、計1290人で50のポストを争ったわけです。結果、11名の民間校長が来春誕生しますよ>。

これはいい動きではないだろうか。この民間校長の活躍が楽しみだ。

<校長って、不思議なことに人事権と予算権がないんです。目の前にいる気に食わない教員を飛ばしたり、できる人を昇進させることもできないんです。私企業だと「偉くなりたいだろ」とか言って人事権、昇進権を上司の権限として行使するでしょ?だから、偉くなりたい人をコントロールできるわけじゃないですか。でも教員って、9割方が教員のままでいたいし、管理職になりたい人があまりいない。なおかつ、この仕事をやったらボーナスとか、社長賞みたいなものもない>。

<しかも予算権もない。学校っていろんなところも壊れるし、印刷代から何やらで消えてしまうので、自由に使える金ってあるところで200万円ほど、ないところでは20万円もないですよ>。

校長は、人事権も予算権もないのだそうだ。これではたしかに、何もできないだろう。

<いじめって学校で起こるから、学校問題だと思われがちです。ところがいじめは、先生や学校が悪くて起こるわけではないんですよ。ほとんどが家庭の問題で、生活保護世帯だからではなく、両親がいて豊かなのに精神的に押さえつけられて起こすなど、ものすごく多様です。そういう意味では、社会問題といえます。それが一番弱いところに噴出するから、学校で起こるわけです。学校問題だと思って学校で対処しても解決しませんよ>。

<欧米社会は「みんな一緒の社会」から成熟した「それぞれ一人ひとりの社会」になっていくときに、国教を発動して、教会を中心にコミュニティができていきました。産業社会は、高度に差別化して、序列化させていく社会だから、そこからこぼれた人をつなげる役割を宗教が担ったんです。ただ、日本は教会のようなものがありません。だから地域社会が後退して、個人を守れなくなってしまったといえます>。

<そこで日本の場合、学校が教会の役割を果たしてきました。だからこそ担任の先生は、生徒が補導されたとき、親が家にいなければ、先生が警察に謝って生徒を学校に連れてきて、親の帰りを待って帰すわけです。海外の先生はそんなことしません。日本の教員だけが生活指導の役割を果たし、教会の神父の役割も担っている。もし学校の教員が神父の役割、生活指導を放り出せば、日本の警察を3倍くらいにしないと収まらないですよ。だから学校の機能を教会的な役割も含めて強化するのであれば、やっぱり民間の校長を3000人くらい入れて、風土を変えるべきです>。

日本では、学校が「教会」の役割を果たしてきた、とのこと。先生はしばしば「聖職」と呼ばれるし、たしかにそうかもしれない。しかしこれは、あまりにも先生に負担が大きすぎる気がする。

いじめの問題も、実際は「社会問題」であるにもかかわらず、学校が「聖域」であるがゆえに、先生という「聖職」が処理すべき問題になってしまうわけだ。しかし、学校や先生は警察ではないし、問題ある生徒をかんたんに辞めさせることもできないだろうから、これはなかなかうまく処理できないだろう。やはり、辞めさせるという「人事権」がないと、モラルの崩壊を食い止めるのはむずかしい。

いじめの問題については、個人的には、学校の「聖域」化をやめるしかない、と思っている。つまり、いじめも犯罪として裁くしかない。しかし現状では、学校側にも「警察沙汰にしたら、学校の評判に傷がつく」と考え、いじめを隠蔽する動機がある。このインセンティブ構造を変える必要があるだろう。

<安倍政権時代、教育基本法を改正しましたが、義務教育が良くなったわけじゃありません。大事なのは、人事です。だから3000人の民間校長をいれるべき。そして、全ての問題の根っこは、日本の教育の「正解主義」にある。これを崩されなければならない>。

<本当にこれは「宗教改革」です。布石を打って10年以上経とうとしていますが、今まで僕が取り組んだ新規事業のなかで、一番時間がかかっているかもしれません。でも、あと5年くらいで勝負をつけたいですね>。

藤原氏の問題意識には完全に賛同するのだが、これは残念ながら、5年や10年でカタがつく問題とは思えない。なぜならば、「正解主義」でない教育をやるには、制度や人事を変えるだけでなく、「正解主義」でない教育をやれる人材が必要だからだ。そのためにも、まずはトップの校長を民間の人材に変える、という話なのだろうと思うが、現場の先生もみな、「正解主義」でない教育をできるところまで行くのは、かなり先の話だと思う。

さらに、学校で「正解主義」でない教育がおこなわれるようになるには、それを教える人材だけでなく、親の側にもそれを受け入れる度量が必要になる。「正解」がはっきりしない場合も、「評価」はされるわけで、それを親が納得して受け止められるかどうか。「主観恐怖症」の日本では、これがもっともむずかしいところだという気がする。


関連エントリ:
教科書が無味乾燥である理由
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「主観恐怖症」の日本
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu
学校教育には、正解/不正解ではなく「暫定的な答え」をバージョンアップしていく「仮説ドリブンアプローチ」が足りない
http://mojix.org/2009/03/09/hypothesis_driven_approach