2013.03.10
折口信夫「教育とは、個性をもって個性を征服することだ」
折口信夫(おりくち しのぶ)が国語教育について書いた、『新しい国語教育の方角』(1925年)というエッセイを見つけた。

青空文庫 - 図書カード:No.47178 新しい国語教育の方角 折口信夫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/card47178.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47178_34892.html

<私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます>。

<この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発(カイホツ)するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません>。

折口信夫は、教育者が生徒の個性を尊重しようとするのはダメだ、と言っている。生徒の個性を開発するものは、教育者の個性だ、と。

<たとへば、優れた芸術家が、一人でも先輩或は、周囲の影響を受けないで、偉大な個性に目醒めたといふ例がありませうか。教育は畢竟、個性を芽生えさせる所に意味がある筈です。併しその上に、その個性に、ある進路を与へることがなくては、教育者自身の存在は意味がなくなります。強い言ひ表し方をすれば、教育は、個性を以つて個性を征服するところに、真の意義があるのです。謂はゞ、個性の戦争であるのです>。

すぐれた芸術家は、先輩や周囲の偉大な個性に影響されて、個性を開花させていく。それと同じように、教育も、生徒の個性を芽ばえさせることに意味がある。強い言い方をすれば、教育とは「個性をもって個性を征服すること」なのであり、いわば「個性の戦争」である、と折口信夫は言っている。まったく同感だ。

<神授の物を授けてはならないと言つて、旧信仰の忘れ形身の様な個性尊重説の下に動きのとれなくなつてゐる教育家は、実は自身の個性に信頼が出来ないのです。自身侮り、卑下して居て、個性の戦争などに思ひの及ぶはずもありません。教育は職業になりました。合同作業になりました。被教育者の個性の征服は勿論、教育者同士の間にも、もつと妥協態度を棄てる必要がありはしませんか。お互の教育効果を減殺する事を気にするより先に、影響の強さを競ふつもりになつて欲しいものです>。

教育者は、生徒の個性を尊重するという名のもとに、じつは自分の個性に自信がないのではないか。教育者は、影響の強さを競うくらいになれ、と。

折口信夫がこれを書いたのは1925年だが、この提言はいまでも通用すると思う。日本の教育は、この頃からあまり変わっていないわけだ。むしろ、「正解主義」がますます支配し、教育者の個性はますます封じ込められて、退化すらしているかもしれない。


関連エントリ:
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