フィードリーダーを使う人は情報オタク
NHN Japanでライブドアブログを担当する佐々木大輔(sasakill)さんが、私の昨日のエントリをふまえて、こう書いている。
アルカンタラの熱い夏 - 「RSSリーダーは終わった論」に思う、図書館の本をすべて読むことができた時代の伝説的司書・リチャード・ガーネットの話(2013.03.15)
http://blog.livedoor.jp/sasakill/archives/50810114.html
<私のごく個人的な感情に従えば、「これからの時代はどうなっていくのか」とか「この技術はどうなっていくのか」だなんてことはどうでもいいことです。これら一連の狂騒について頭に思い浮かんだのは、図書館にある本をすべて読むことができた最後の時代の伝説的司書リチャード・ガーネットの話だからです>。
そして、「読書猿Classic」の「The Ideal Librarian - 自分のいる図書館のすべての書物を読むことができた最後の司書」というエントリを引用した上で、こう書いている。
<そして私は、こういう人物に憧れます。めちゃくちゃかっこいいと思っています。
そういう人にとって、「RSSリーダーで情報をチェックする時代は終わった」「ソーシャルフィルタリングでふんふんしようぜ」というのはなんの福音にもならないわけです。Gunosyおおいに結構。でもそういうんじゃないんですよ>。
<現代は、目録(インデックス)の時代の延長にあるわけですが、それでも私は、できる限りの範囲で、博覧強記でありたいと思っているし、そこにロマンを持っています。つまり「RSSリーダーは終わった論」に私が感じる“話のあわなさ”というのは、それがマーケティングやテクノロジーの話に終始して、「知」に対するロマンの持ち方の問題にまで話が及ばないからです>。
これは、ちょうど話が反対だと思う。
そもそも、フィードリーダーを使うような人は、一種の情報オタクだろう。少なくとも、ソーシャルメディアで流れてくる情報とか、Gunosyのオススメなどでは満足できず、自分自身で情報源を選んで、その更新をいち早く知りたい、と思う程度にはオタクである。
フィードリーダーを使う人が情報オタクだとすれば、Google Readerの終了や、フィード技術の凋落といったことについて、自分のブログで論じたりしている私のような人間は、筋金入りの情報オタク、超絶なる情報オタクと言うしかない。
私から見れば、「これからの時代はどうなっていくのか」とか、「この技術はどうなっていくのか」という話は、「知に対するロマン」に反するどころか、むしろきわめて関係が深いのだ。ぜんぜん、どうでもよくない。
今回、Google Readerについてあれこれ書いているブログを見ても、どれもこれも、よく見かけるブログばかりだ。よく見かけるブログを書いている人たちは、ほぼ例外なく、超絶なる情報オタクだろう。そういう人たちは、「知に対するロマン」を人一倍持っているからこそ、知を収集するための技術にもこだわっている、というふうにしか見えない。
図書館のすべての書物を知っていたリチャード・ガーネットも、たしかにすごいと思う。しかし、いまの辞書の原型をつくったサミュエル・ジョンソンや、百科全書をつくったディドロとダランベール、国際十進分類法やムンダネウムで知られるポール・オトレなどのほうが、私にとっては英雄である。つまり、単に博覧強記である人よりも、自分自身も博覧強記でありながら、多くの人に役立つ目録(インデックス)をつくった人のほうが、私にとっては偉大なのだ。
フィードやフィードリーダーといった情報技術は、サーチエンジンなどと同様、いわば「現代の目録」である。こうした技術は、「知に対するロマン」や博覧強記と矛盾しないどころか、むしろそれを助け、強化するものだと思う。
関連エントリ:
Google Readerが7月1日で終了 これがフィードの「終わりの始まり」かも
http://mojix.org/2013/03/15/google-reader-feed
穴を使って「属性検索」する昔のカード技術 「Edge-notched card」
http://mojix.org/2008/06/19/edge-notched-card
ポール・オトレ、オットー・ノイラート、ル・コルビュジエをつなぐ大田暁雄
http://mojix.org/2008/03/19/otlet-neurath-corbusier-ota
アルカンタラの熱い夏 - 「RSSリーダーは終わった論」に思う、図書館の本をすべて読むことができた時代の伝説的司書・リチャード・ガーネットの話(2013.03.15)
http://blog.livedoor.jp/sasakill/archives/50810114.html
<私のごく個人的な感情に従えば、「これからの時代はどうなっていくのか」とか「この技術はどうなっていくのか」だなんてことはどうでもいいことです。これら一連の狂騒について頭に思い浮かんだのは、図書館にある本をすべて読むことができた最後の時代の伝説的司書リチャード・ガーネットの話だからです>。
そして、「読書猿Classic」の「The Ideal Librarian - 自分のいる図書館のすべての書物を読むことができた最後の司書」というエントリを引用した上で、こう書いている。
<そして私は、こういう人物に憧れます。めちゃくちゃかっこいいと思っています。
そういう人にとって、「RSSリーダーで情報をチェックする時代は終わった」「ソーシャルフィルタリングでふんふんしようぜ」というのはなんの福音にもならないわけです。Gunosyおおいに結構。でもそういうんじゃないんですよ>。
<現代は、目録(インデックス)の時代の延長にあるわけですが、それでも私は、できる限りの範囲で、博覧強記でありたいと思っているし、そこにロマンを持っています。つまり「RSSリーダーは終わった論」に私が感じる“話のあわなさ”というのは、それがマーケティングやテクノロジーの話に終始して、「知」に対するロマンの持ち方の問題にまで話が及ばないからです>。
これは、ちょうど話が反対だと思う。
そもそも、フィードリーダーを使うような人は、一種の情報オタクだろう。少なくとも、ソーシャルメディアで流れてくる情報とか、Gunosyのオススメなどでは満足できず、自分自身で情報源を選んで、その更新をいち早く知りたい、と思う程度にはオタクである。
フィードリーダーを使う人が情報オタクだとすれば、Google Readerの終了や、フィード技術の凋落といったことについて、自分のブログで論じたりしている私のような人間は、筋金入りの情報オタク、超絶なる情報オタクと言うしかない。
私から見れば、「これからの時代はどうなっていくのか」とか、「この技術はどうなっていくのか」という話は、「知に対するロマン」に反するどころか、むしろきわめて関係が深いのだ。ぜんぜん、どうでもよくない。
今回、Google Readerについてあれこれ書いているブログを見ても、どれもこれも、よく見かけるブログばかりだ。よく見かけるブログを書いている人たちは、ほぼ例外なく、超絶なる情報オタクだろう。そういう人たちは、「知に対するロマン」を人一倍持っているからこそ、知を収集するための技術にもこだわっている、というふうにしか見えない。
図書館のすべての書物を知っていたリチャード・ガーネットも、たしかにすごいと思う。しかし、いまの辞書の原型をつくったサミュエル・ジョンソンや、百科全書をつくったディドロとダランベール、国際十進分類法やムンダネウムで知られるポール・オトレなどのほうが、私にとっては英雄である。つまり、単に博覧強記である人よりも、自分自身も博覧強記でありながら、多くの人に役立つ目録(インデックス)をつくった人のほうが、私にとっては偉大なのだ。
フィードやフィードリーダーといった情報技術は、サーチエンジンなどと同様、いわば「現代の目録」である。こうした技術は、「知に対するロマン」や博覧強記と矛盾しないどころか、むしろそれを助け、強化するものだと思う。
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