イリイチの脱学校論
竹内洋『社会学の名著30』(ちくま新書)を拾い読みしていて、ここで紹介されているイヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(原著1970、邦訳1977)という本に興味を持った。
<イリッチは、子どもは学校に所属し、学校で学び、学校でのみ教えられうるということが近代社会においては疑いのない前提になり、望ましく、善き事とされているが、その前提について大きな疑問を投げかける>。
学校を教育と同一視する「教育の学校化」によって、次のようなことが起きる。
<教授されることと学習することを混同し、進級することがそれだけ教育を受けたことに、免状を取得すれば能力があるとみなすようになる。多くの人が学校で教育を受けることによって、自分よりよけい学校教育を受けたものに対して劣等感をもつようになってしまう。われわれが知っていることの大部分は、学校の外で教師の介在なしに「話し、考え、愛し、感じ、遊び、呪い、政治をし、働くのを学んできた」にもかかわらずに、である。
さらに、学校をとおして価値を受け取るようになると、想像力が学校化されてくる。学校で教授されることが教育だとみなすようになるのと同じようなことが健康や安全などにも起こってくる>。
<彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう>。
まったく、その通りだというしかない。
ショッキングなまでに核心を突いた、見事な指摘だと思う。
イヴァン・イリイチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4...
<イヴァン・イリイチ(Ivan Illich、1926年9月4日 - 2002年12月2日)は、オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家である。イヴァン・イリッチとも表記される>。
<学校、交通、医療といった社会的サービスの根幹に、道具的な権力、専門家の権力を見て、それから離れて地に足を下ろした生き方を模索。過剰な効率性を追い求めるがあまり、人間の自立、自律を喪失させる現代文明を批判し、学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。「脱学校論」として知られる。 これは、当時のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった>。
脱学校論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%AB%96
<脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチの造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為を取り戻すために、学校という制度を乗り越えていくこと。教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びを取り戻すこと>。
イリイチ、名前くらいしか知らなかったが、こんな人だったとは。
私は以前、「学習とは何がおもしろいかに気づくこと - ワーマン 『情報選択の時代』」というエントリで、次のように書いた。
<乱暴に言えば、「教育」は不可能だという結論に私は達した。学ぶ気持ちがある人の背中を押すこと、それ以外にほんとうの教育なんてありえないと思う>。
学生時代・教師時代の体験から、私は自分なりにこう考えるに至っていたので、イリイチの指摘はまったくその通りだと思う。
『脱学校の社会』の原文である『DESCHOOLING SOCIETY』が、ネットにのっていた。
DESCHOOLING SOCIETY by Ivan Illich
http://reactor-core.org/deschooling.html
冒頭に引用した『社会学の名著30』からの一節は、これの「1. WHY WE MUST DISESTABLISH SCHOOL」の出だしあたりに対応しているようだ。学校は生徒に対して、<confuse process and substance>(プロセスと実質を混同する)ように教えこんでしまう、とある。
イリイチのいう「学校」は、文字通りの学校だけでなく、価値を実現する手段としての「制度」だ。あくまでも手段、プロセスである「制度」が、価値や実質そのものと混同され、それに成りかわってしまうことを問題視している。
イリイチの「脱学校」は、「学校」によって隠されてしまった、学ぶことの価値、実質を取り戻すためのものだ。英語のWikipediaページでは、イリイチはアナキストだと書かれているが、それもわかる気がする。
人間は自分でやることを通じて、はじめて真に理解することができる(「自分で作ると理解できる」「自ら実践しない限りは、何も理解することはできない」)。
イリイチは人間の自主性や自立心を重視し、専門分化によって人間的バランスが失われることの弊害を指摘しているようだ。これはノーバート・ウィーナーやモホリ=ナギ、バックミンスター・フラーなどの思想に通じる。イリイチは私にとって重要な思想家かもしれない。
<イリッチは、子どもは学校に所属し、学校で学び、学校でのみ教えられうるということが近代社会においては疑いのない前提になり、望ましく、善き事とされているが、その前提について大きな疑問を投げかける>。
学校を教育と同一視する「教育の学校化」によって、次のようなことが起きる。
<教授されることと学習することを混同し、進級することがそれだけ教育を受けたことに、免状を取得すれば能力があるとみなすようになる。多くの人が学校で教育を受けることによって、自分よりよけい学校教育を受けたものに対して劣等感をもつようになってしまう。われわれが知っていることの大部分は、学校の外で教師の介在なしに「話し、考え、愛し、感じ、遊び、呪い、政治をし、働くのを学んできた」にもかかわらずに、である。
さらに、学校をとおして価値を受け取るようになると、想像力が学校化されてくる。学校で教授されることが教育だとみなすようになるのと同じようなことが健康や安全などにも起こってくる>。
<彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう>。
まったく、その通りだというしかない。
ショッキングなまでに核心を突いた、見事な指摘だと思う。
イヴァン・イリイチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4...
<イヴァン・イリイチ(Ivan Illich、1926年9月4日 - 2002年12月2日)は、オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家である。イヴァン・イリッチとも表記される>。
<学校、交通、医療といった社会的サービスの根幹に、道具的な権力、専門家の権力を見て、それから離れて地に足を下ろした生き方を模索。過剰な効率性を追い求めるがあまり、人間の自立、自律を喪失させる現代文明を批判し、学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。「脱学校論」として知られる。 これは、当時のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった>。
脱学校論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%AB%96
<脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチの造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為を取り戻すために、学校という制度を乗り越えていくこと。教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びを取り戻すこと>。
イリイチ、名前くらいしか知らなかったが、こんな人だったとは。
私は以前、「学習とは何がおもしろいかに気づくこと - ワーマン 『情報選択の時代』」というエントリで、次のように書いた。
<乱暴に言えば、「教育」は不可能だという結論に私は達した。学ぶ気持ちがある人の背中を押すこと、それ以外にほんとうの教育なんてありえないと思う>。
学生時代・教師時代の体験から、私は自分なりにこう考えるに至っていたので、イリイチの指摘はまったくその通りだと思う。
『脱学校の社会』の原文である『DESCHOOLING SOCIETY』が、ネットにのっていた。
DESCHOOLING SOCIETY by Ivan Illich
http://reactor-core.org/deschooling.html
冒頭に引用した『社会学の名著30』からの一節は、これの「1. WHY WE MUST DISESTABLISH SCHOOL」の出だしあたりに対応しているようだ。学校は生徒に対して、<confuse process and substance>(プロセスと実質を混同する)ように教えこんでしまう、とある。
イリイチのいう「学校」は、文字通りの学校だけでなく、価値を実現する手段としての「制度」だ。あくまでも手段、プロセスである「制度」が、価値や実質そのものと混同され、それに成りかわってしまうことを問題視している。
イリイチの「脱学校」は、「学校」によって隠されてしまった、学ぶことの価値、実質を取り戻すためのものだ。英語のWikipediaページでは、イリイチはアナキストだと書かれているが、それもわかる気がする。
人間は自分でやることを通じて、はじめて真に理解することができる(「自分で作ると理解できる」「自ら実践しない限りは、何も理解することはできない」)。
イリイチは人間の自主性や自立心を重視し、専門分化によって人間的バランスが失われることの弊害を指摘しているようだ。これはノーバート・ウィーナーやモホリ=ナギ、バックミンスター・フラーなどの思想に通じる。イリイチは私にとって重要な思想家かもしれない。