2009.08.03
「組織」を信頼するのか、「個人」を信頼するのか
自民党を離党した元衆議院議員の山内康一氏が、こう書いている。

山内康一の「蟷螂(とうろう)の斧」 - ベンチャー政党
http://yamauchi-koichi.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-068d.html

<私の場合、自民党を離党してしまった結果として、
組織的基盤はまったくと言っていい程なくなりました。
自民党の看板で支持してもらっていた業界団体はもちろん、
自らの後援会組織もいまや壊滅的な状況にあります。
これではとても組織選挙は戦えません>。

<前にブログで書いた「組織選挙から個人選挙へ」の流れを
一気に先取りせざるを得ない状況に追い込まれました。
有権者と直接的かつ個人的につながることができる方法を
実践していかなくてはいけません>。

(なお、氏のブログ名は8月から「蟷螂(とうろう)の斧」に変わった

自民党を離党するからには、このことは当然、山内氏も覚悟していただろう。しかしそれにしても、<自らの後援会組織もいまや壊滅的な状況にあります>と書かざるを得ないほど、その現実に直面してあらためてショックを受けていることが、痛切に伝わってくる。

いまの山内氏の状況は、大企業を飛び出して独立した人が、あらためて「現実」というものの厳しさを思い知る、といった状況に似ていると思う。「自民党だから」支持していた人、「政権与党だから」支持していたような人がすべて離れていき、純粋に山内氏という政治家「個人」を信頼している人だけが残る(「支持理由はさまざま」というエントリで、似た話が書かれている)。

これはちょうど、大企業を辞めて独立した人が、大企業を辞めたとたんに冷たい扱いをされることが多くなり、それまでの自分がいかに大企業の「看板」に守られていたかを思い知る、といった状況に似ていると思う。大企業を辞めれば、これまで大企業の「看板」に吸い寄せられてきた人は一切来なくなり、純粋にその人「個人」を信頼している人だけが残る。大企業の中には、大企業の「看板」の力を自分の力と過信している人が少なくないようで、辞めてみて初めてそのことに気づいた、といった話をときどき聞く。

大きな「組織」の庇護を離れて、「個人」の力で勝負すること。これが「独立」というものだろう。政治家にしても起業家にしても、独立して生き残っていくことは決してラクではないが、だからこそ、独立した「個人」はかなり鍛えられる。そのようにして鍛えられた「個人」は、みずから「組織」を作ったり、別の「組織」に再度加わったりしても、独立する前に比べてはるかに成長しているだろう。

政党は必要なのか?」や「(自民党と民主党は)両政党の違いよりも、政党内部の違いの方が大きい」といったエントリでも書いてきたように、いまの自民党や民主党はあまりに雑多な政治家が集まりすぎていて、「大きすぎる」と私は感じている。政党を一切なくすべきとまでは思わないが、もう少し政策やビジョンの方向によってまとまった小さな政党でなければ、政党という単位では支持しようがないと考える。

山内氏は「ベンチャー政党」という表現をしているが、これは私が望ましいと考える「小さな政党」のイメージにほぼ一致するもののようだ。

<ベンチャー政党には、いわば「政策起業家」が必要です。
シンクタンク、NPO、大学教授、企業人、脱藩官僚など、
いろんな人の知恵を借りながら、霞が関とは異なる視点で、
新しい政策、新しい仕組みを提案していく必要があります>。

<いわば「政策の生産プロセス」から新しい方式を採用し、
政策コミュニケーションのやり方も、
まったく新しいものをつくっていかなくてはいけません>。

こういう「ベンチャー政党」が出てきたら、きっと少なくない支持を集めると思う。いまの自民党も民主党も、雑多な政治家がいるだけでなく、さまざまな支持母体や利害関係者への「配慮」が積み重なって、結局どこにも斬り込まず、よって何も改革できないような、八方美人的で「玉虫色」の政策が出てきてしまう。まさに「大企業病」そっくりだ。

山内氏の「ベンチャー政党」というエントリには、「個人」というキーワードがたくさん出てくる。政党という「組織」を信頼するのか、政治家という「個人」を信頼するのか、という2つの方向性でいうと、私は間違いなく「個人」のほうを信頼するし、山内氏もおそらくそうだろう(「組織選挙から個人選挙へ」というエントリにもそれがあらわれている)。「ベンチャー政党」は、「ベンチャー企業」と同様、そこに属する「個人」のビジョンや才能、個性が、大企業的な「組織の論理」に押しつぶされることなく、ほとんどナマの形で出てくるような、そういう政党だろう。

政党という「組織」より、政治家という「個人」を信頼する、という点に関連して、最近日本でも定着しつつある「マニフェスト選挙」を批判しているエントリを2つ見かけた。

雑種路線でいこう - マニフェスト選挙への素朴な疑問
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20090726/manifesto

<自民党も民主党も共産党のような組織政党ではないし、多くの有権者は党のイデオロギーや個々の政策よりも、候補者の人格やら政局のバランスを考えて投票してきたのではないか。強い権限を持つ米国の大統領や日本の県知事と比べて総理大臣の実権は限られている。経済が厳しい状況の中で、実際の政策は政局だけでなく景気や金利などを意識して柔軟かつ機敏に決断されるべきだ>。

<歴史的に今の自民党・民主党という枠組み自体が政策を軸とした分類にはなっていないし、政界再編の可能性も取り沙汰される中で、選挙では政党の公認だけでなく個々の議員の本音を調べて是々非々で判断したい。両党が肝煎りでマニフェストを公表した場合に、個々の議員が自党のマニフェストについて説明できることは当然として、メディアから揚げ足を取られないよう個別の異見表明が制約されることは決して望まない>。

<私は耳心地よい具体的なマニフェストよりは、個々の候補者の価値観や行動様式、或いは政党組織に対しては意志決定過程や権力構造に対して興味がある。彼らに託すのは過去の政策論ではなく未来への意志決定なのだから>。

田中良紹の「国会探検」 - 「マニフェスト選挙」を叫ぶインチキ
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/08/post_203.html

<私は以前から日本の政治構造を考えるとマニフェスト選挙は原理的に不可能であり、今言われている「マニフェスト選挙」はせいぜい「もどき」でしかないと言い続けてきた。にもかかわらず「もどき」が「もどき」を越えるようでは、この国の政治がまともな民主主義に近づく筈がない>。

<マニフェスト選挙の本場は英国である。アメリカにマニフェスト選挙はない。一度だけギングリッチという共和党下院議員が「アメリカとの契約」を掲げて共和党を大勝に導いた事がある。その勝利で自らも下院議長に就任した。それが英国の「マニフェスト選挙」を真似た珍しい例だが、ギングリッチの手法はその後国民の批判を浴びて本人は政界を引退し、その後マニフェスト選挙のようなものは行われていない>。

<アメリカにマニフェスト選挙がないのは、アメリカ国民が政策よりも候補者を重視するからである。自分たちの代表足りうる候補者かどうかを見極める事が民主主義にとって大事だと考えている。従って候補者は自分がどういう人間であるか、何をやろうとしているか、自分には政治家になる資質があるという事を有権者に説明する。しかし英国の選挙はまるで違う。国民が選ぶのは政党のマニフェストで候補者ではない。候補者は決して自分の名前を売り込まない。ひたすら戸別訪問で党の政策を説明して歩く。「候補者は豚でも良い」とジョークで言われるほど候補者は無視される>。

前者の楠さんと後者の田中氏では、切り口がやや違うものの、日本でマニフェスト選挙をやること、あるいはマニフェストを重視しすぎることを批判している点は同じだ。

楠さんが書いていることは、まさに「組織」よりも「個人」を信頼したい、という楠さん自身のスタンス表明に近いものだと思える。田中氏は、政党のマニフェストで選ぶのは英国式であり、これに対して日本の政治はアメリカ型の「候補者を選ぶ選挙」なので、日本にマニフェスト選挙はそぐわない、という趣旨だ。マニフェスト選挙をやるなら、選挙の仕組み自体を変える必要があるとも指摘されている。

私の考えとしては、「組織」より「個人」を信頼する、という意味では楠さんと同様、政治家も国民も、マニフェストにこだわりすぎないほうがいいと思う。しかし日本の場合、「組織」より「個人」を選ぶにしても、その「個人」を選ぶ根拠自体が、「政策」よりも「つながり」だったり、もっとひどい場合「利益誘導」である、という未熟な段階にある。その意味では、国民が「政策」というものに意識的になる機会を増しているという点で、国をあげて「マニフェスト祭り」(笑)をやるのも悪くない、と思う。


関連エントリ:
(自民党と民主党は)両政党の違いよりも、政党内部の違いの方が大きい
http://mojix.org/2009/07/30/jimin_minshu_chigai
山内康一氏が自民党を離党 構造改革路線、「小さな政府」路線の正統な継承者
http://mojix.org/2009/07/24/yamauchi_ritou