自由とは「多様性を許容する設計」である
A:平日の午前9時から午後5時まで働いている人
B:休日もほとんどなく、毎日朝から晩まで働いている人
C:週に数時間だけ働いている人
この3人のうち、「もっとも模範的な人」はどの人だろうか。
その社会で何が「模範的」と考えられているかによるが、日本ではAだろう。
この3人のうち、「もっとも幸せな人」はどの人だろうか。
それはわからない。それぞれの人の「幸せ」観や、仕事の内容による。
この3人のうち、「もっとも社会に貢献している人」はどの人だろうか。
それはわからない。それぞれの人が出している成果による。
Aが「模範的」であり、「望ましい」とその社会が考えるのは構わないが、だからといってBやCの労働形態を規制したり、罰していいものだろうか。
Bは仕事が面白くて、3人のうちもっとも充実しているかもしれない。
Cは最小の労働で、3人のうちもっとも大きな成果を出しているかもしれない。
逆にAは、労働時間だけ見れば「模範的」かもしれないが、ほとんど成果を出しておらず、かつ本人も幸せでないかもしれない。
AはBより労働時間は短いが、仕事がつまらなくて苦痛であり、余暇の時間をストレス解消のために無為に過ごし、稼いだお金をムダ使いしているかもしれない。
自由主義者はこう考える。何が幸せかは本人しかわからないのだから、本人がA~Cのうち好きなものを選べばいい。逆に、本人がA~Cのうち好きなものを選べないように社会が強制するのは、自由の侵害である。
得られる報酬や対価は、労働時間ではなく出した成果で決まる。これは、労働によって生まれる商品やサービスを買う消費者が、その生産のためにかかった労働時間に関係なく、あくまでもその商品やサービスの内容に対して、その価格が納得いくかどうかだけで買うことを決めるからだ。いくらたくさん働き、いくらすごいものを生産したとしても、買い手があらわれなければ、その生産者にはお金が入らない。
結局のところ、社会から見て「模範的」な働き方が、本人の幸せを保証するわけでもないし、成果を出せることを保証するわけでもない。よって、政府が個人に対して「模範的」な働き方を強制できる根拠はないはずだ。幸せも成果も保証されないのに、政府が個人に何かを強制するとすれば、それは「コスト」(機会費用)であり、税金を取られてお金が減るのと同じく、自由という財産が減らされている。
本人の幸せは、本人にしかわからないのだから、本人に自由にさせればよい。報酬は成果に応じて得られるのが当然だから、それを前提として、どのくらい働くか、どのくらい遊ぶか、どのくらい休むかを本人が自分で決めればいい。
「模範的」な働き方を政府が強制したところで、本人の幸せにもつながらないし、成果を出すことにもつながらない。ガムシャラに働いて稼ぎたい人もいるし、稼ぎは少なくていいので休みを多くしたい人もいる。毎日9時5時で働くよりも、気分が乗ったときだけ気ままに働いたほうが成果を出せる人もいるし、年に3か月くらい集中して働き、あとは遊びたい人もいる。
人間はさまざまであり、多様である。自由とは、その多様性を許容する「設計」だ。多様性を許容することは、個人の自由を尊重するだけでなく、そこから生まれる富やアイディアの量を増やし、社会をも成長させる。その反対に、規制によって自由を奪い、多様性が失われれば、その社会は滅びる。
多様性とは、できるだけさまざまな方法やアイディアを許すという「分散アーキテクチャ」である。それは、成長やイノベーションにつながる突飛な考えを生み出しやすくするための「豊かな土壌」でもあるし、合理性に限界がある人間の「弱さ」をカバーし、社会や人類を存続させるための「セーフティネット」でもある。
成長やイノベーションのような「大当たり」も、自然災害や金融危機のような「大損害」も、タレブのいう「ブラックスワン」であり、事前にそれを計画したり予測したりできない。これに備えるには、できるだけ幅広く「分散投資」しておくしかない。社会や人類にとって「多様性」が重要である理由がこれであり、それを許容するのが「自由」なのである。
関連エントリ:
「主観恐怖症」の日本
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
群集がいつも賢いとは限らない 「Wisdom of Crowds」の成立条件
http://mojix.org/2006/01/14/100147
B:休日もほとんどなく、毎日朝から晩まで働いている人
C:週に数時間だけ働いている人
この3人のうち、「もっとも模範的な人」はどの人だろうか。
その社会で何が「模範的」と考えられているかによるが、日本ではAだろう。
この3人のうち、「もっとも幸せな人」はどの人だろうか。
それはわからない。それぞれの人の「幸せ」観や、仕事の内容による。
この3人のうち、「もっとも社会に貢献している人」はどの人だろうか。
それはわからない。それぞれの人が出している成果による。
Aが「模範的」であり、「望ましい」とその社会が考えるのは構わないが、だからといってBやCの労働形態を規制したり、罰していいものだろうか。
Bは仕事が面白くて、3人のうちもっとも充実しているかもしれない。
Cは最小の労働で、3人のうちもっとも大きな成果を出しているかもしれない。
逆にAは、労働時間だけ見れば「模範的」かもしれないが、ほとんど成果を出しておらず、かつ本人も幸せでないかもしれない。
AはBより労働時間は短いが、仕事がつまらなくて苦痛であり、余暇の時間をストレス解消のために無為に過ごし、稼いだお金をムダ使いしているかもしれない。
自由主義者はこう考える。何が幸せかは本人しかわからないのだから、本人がA~Cのうち好きなものを選べばいい。逆に、本人がA~Cのうち好きなものを選べないように社会が強制するのは、自由の侵害である。
得られる報酬や対価は、労働時間ではなく出した成果で決まる。これは、労働によって生まれる商品やサービスを買う消費者が、その生産のためにかかった労働時間に関係なく、あくまでもその商品やサービスの内容に対して、その価格が納得いくかどうかだけで買うことを決めるからだ。いくらたくさん働き、いくらすごいものを生産したとしても、買い手があらわれなければ、その生産者にはお金が入らない。
結局のところ、社会から見て「模範的」な働き方が、本人の幸せを保証するわけでもないし、成果を出せることを保証するわけでもない。よって、政府が個人に対して「模範的」な働き方を強制できる根拠はないはずだ。幸せも成果も保証されないのに、政府が個人に何かを強制するとすれば、それは「コスト」(機会費用)であり、税金を取られてお金が減るのと同じく、自由という財産が減らされている。
本人の幸せは、本人にしかわからないのだから、本人に自由にさせればよい。報酬は成果に応じて得られるのが当然だから、それを前提として、どのくらい働くか、どのくらい遊ぶか、どのくらい休むかを本人が自分で決めればいい。
「模範的」な働き方を政府が強制したところで、本人の幸せにもつながらないし、成果を出すことにもつながらない。ガムシャラに働いて稼ぎたい人もいるし、稼ぎは少なくていいので休みを多くしたい人もいる。毎日9時5時で働くよりも、気分が乗ったときだけ気ままに働いたほうが成果を出せる人もいるし、年に3か月くらい集中して働き、あとは遊びたい人もいる。
人間はさまざまであり、多様である。自由とは、その多様性を許容する「設計」だ。多様性を許容することは、個人の自由を尊重するだけでなく、そこから生まれる富やアイディアの量を増やし、社会をも成長させる。その反対に、規制によって自由を奪い、多様性が失われれば、その社会は滅びる。
多様性とは、できるだけさまざまな方法やアイディアを許すという「分散アーキテクチャ」である。それは、成長やイノベーションにつながる突飛な考えを生み出しやすくするための「豊かな土壌」でもあるし、合理性に限界がある人間の「弱さ」をカバーし、社会や人類を存続させるための「セーフティネット」でもある。
成長やイノベーションのような「大当たり」も、自然災害や金融危機のような「大損害」も、タレブのいう「ブラックスワン」であり、事前にそれを計画したり予測したりできない。これに備えるには、できるだけ幅広く「分散投資」しておくしかない。社会や人類にとって「多様性」が重要である理由がこれであり、それを許容するのが「自由」なのである。
関連エントリ:
「主観恐怖症」の日本
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
群集がいつも賢いとは限らない 「Wisdom of Crowds」の成立条件
http://mojix.org/2006/01/14/100147