2009.08.01
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
いつも面白いブログ「フランスの日々」で、「怠け者同盟の社会」というシリーズが始まっている。

フランスの日々 - 怠け者同盟の社会は人類の未来
http://mesetudesenfrance.blogspot.com/2009/07/blog-post_2751.html

<競争相手の会社や同僚も35時間労働で、日曜日は労働禁止だということになれば、誰もが安心して働くことをやめられます。仕事を休んでいる間にライバル店にシェアを奪われることも無く、休んでいる間に同僚と差がつくことも無いからです。さらに競争を抑制すると良いのは、労働によって得られる成果が競争していた時とそれほど変わらない点です。競争が抑制されていれば、必死に働かなくてもライバル店に勝てる可能性は減りませんし、出世できる可能性も減りません。このあたりは、「競争の抑制によるソシアリスムの実現」にも書いてあります>。

<エネルギー資源、人的資源、労働時間などの資源を投入して経済的利益を上げる競争において、競争を抑制することで減った負荷を本当に社会と個人を「幸福」にする要素に振り分けていきます。エネルギー消費は減れば減るほど好ましいし、余った時間は、例えば家族の団欒を増やし毎日一緒に食事を取るとか、著名な文学作品を読んで感性を養うとかといったことに振り分けます>。

フランスの日々 - 怠け者同盟の社会が働き者の社会に対抗する手段
http://mesetudesenfrance.blogspot.com/2009/07/blog-post_31.html

<怠け者同盟の社会の弱点は、国内市場で競争を抑制できても、グローバル市場では競争を排除できない点です。怠け者ルールを国内で徹底していても、怠け者同盟の社会がフランス一国であれば、フランスの産業だけの国際競争力が低下して、フランスだけが貧しくなります。フランスの製品の品質が低下するから、外国では売れません>。

<さらに、フランスでは35時間労働制や日曜日労働禁止など、競争をエスカレートさせないルールが設定されていて商売がしにくいため、工場が隣国に逃げていきます。なぜなら、外国企業が、工場を作ってフランス人を雇うにしても、怠け者ルールを適応されてしまいます。フランスで利益を上げようとするなら、隣国で製品を作ってフランス市場で売る方が利益が出ます>。

<当然フランスも、1.フランスの品質の低下によりグローバル市場でのシェアが低下する問題、2.産業が隣国に逃げ出していく問題に気づいています>。

<そこで、怠け者の同盟を大きくして、怠け者ルールを適応できる範囲を拡大するアプローチが取られます。これが、このブログで怠け者同盟と「同盟」の二文字を加えた理由です。手始めはヨーロッパ27カ国からなるEUでしょう。フランスが一貫してEU議会のイニシアチブを狙っていく理由の一端です>。

詳しくは元のエントリを読んでほしいが、趣旨をザックリまとめると、「過度な競争は人間を幸福にしないので、競争の抑制によって人間の幸福を確保する」といったところになると思う。この「怠け者」作戦をフランスは意識的にやっている、という話だ。

こうした考え方は、「競争の抑制によるソシアリスムの実現」という以前のエントリでも書かれている。この「ソシアリスム」というのは「社会主義」のことで、「共産主義」のニュアンスを抜いたものとして「ソシアリスム」と書かれている(以下、この「ソシアリスム」の意味で「社会主義」と表記させていただく)。

ブログ主のMadeleine Sophieさんが書いている内容からは、人間への思いやりがひしひしと伝わってくる。それはまさに「社会主義の良心」とも言うべきものだ。これはフランスに限らず、大陸系ヨーロッパに流れる社会思想のひとつの伝統だろう。

社会主義の考え方とは、まさに「パターナリズム」そのものである。「こうしたほうが人間は幸せになる。だからこうしなさい」というものだ。その「良心」はわかるのだが、それが「強制」であることも確かで、私はこの種の考え方にはどうしても賛成できない。

どんなに素晴らしい価値観であっても、それを画一的に「強制」することは間違いだと私は考える。何らかの価値観を「強制」するのではなく、本人の「自由」にさせること、これがもっとも重要なことだと私は信じている。「強制」が認められるのは、他者の「自由」を侵すことを禁じる場合だけであり、他者の「自由」を侵さない限り、何をしても「自由」であるべきだと私は考える。

朝から晩まで1年365日働くのも本人の自由だし、そういう会社を作るのも自由、そういう会社に入るのも自由だと私は考える。逆に、週休6日制の会社があってもいいし、週に4時間しか働かない人がいてもいい。勤務時間も、給与体系も、評価基準も、会社が自由に決めればいいと思う。雇用契約や市場取引といったものは、本来は当事者間の合意によるものだから、どこにも「強制」は入り込まない。当事者が自分で納得して選択している限り、何をやろうが「自由」だと思う。

逆にいえば、もし国民の全員がそれに心の底から合意しているのなら、「社会主義」であってもいいと私は考える。どこにも「強制」が発生しないからだ。しかし現実には、国民の全員が単一の価値観に合意するなどありえないだろう。

よって可能な「社会設計」としては、ひとつの国の中に「小さな国」のようなコミュニティがたくさんあり、それぞれが固有の「社会設計」を持っている、というような仕組みであればいいと思う。そういうコミュニティのひとつが「社会主義」だというのであれば、その価値観に共感する人だけが集まってきて、共感できない人は去っていくから、「強制」は起こらない。会社を選ぶように、自分の属するコミュニティを選ぶことができるのだ。自分の価値観と完全には一致しないまでも、もっとも近いコミュニティを選ぶことができるので、一定の「自由」が確保できる。この話は以前、「さまざまな「社会設計」の自治体が競争するメタ社会」というエントリで書いた。

社会主義やパターナリズムは、いくら「良心」や「善意」に基づいていても、単一の価値観を「強制」するという点が、「社会設計」として基本的に間違っていると思う。それは国や社会の経済的な「生き残り戦略」としても失敗するだろうし、規制がどんどん間違った方向に行ったり、悪い人間が権力を得てしまった場合、最悪の結末にもなりうる

「強制」できる国家権力を最小化し、かつ分散した「分権型社会」こそ、成熟した国家が目指すべき「社会設計」だと私は考える。中央集権型の政府が全体を「強制」して国全体を動かしていくようなやり方は、発展途上国ならともかく、日本やフランスのような先進国ではうまくいかないと思う。

「自由」は「責任」と表裏一体のものだ。国民に「自由」を与えられるかどうかは、国民に「責任」を持たせられるかどうか、そこにかかっている。国の政治を決めるのは、最終的には国民自身なので、これは結局のところ、国民自身が「責任」を引き受けて「自由」を欲しいと思うかどうか、そこにかかっていると思う。

今回の「フランスの日々」の「怠け者同盟の社会」シリーズも雇用・労働の話だし、私がよく書いている解雇規制というテーマも雇用・労働の話である。雇用・労働というのは、それによって人間が生活の糧を得る手段であり、またそこから価値が生まれてくる源泉なので、経済というものを成立させるもっとも基本的な部分である。だからこそ、国がこの基本的な部分に対してどうアプローチするのか、「強制」するのか、「自由」にするのかで、個人の幸福度も、国の経済も、大きく左右される。

「何が幸せか」は本人がいちばん知っているし、本人以外の誰もそれを知りようがない、というのが私の基本的な考え方だ。仮に、本人が愚かなことを選択していても、これを「強制」的にやめさせることで、ほんとうに本人が幸せになるのかどうかは、難しい問題だろう。何が「愚か」なのか、どこまでやると「強制」なのか、といった点もすべて難しい問題であり、考え始めるとキリがないが、「本人の自由な選択を尊重し、それを強制的にやめさせたり、妨害しない」というのが私の基本的な立場である。


関連エントリ:
鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」
http://mojix.org/2009/07/12/tsuru_roudou_sijou
なぜ日本の成果主義は失敗するのか 「責任がなく、権限もない」個人という日本の縮図
http://mojix.org/2009/05/12/japan_seikashugi
消極的自由と積極的自由
http://mojix.org/2009/05/02/two_concepts_of_liberty
さまざまな「社会設計」の自治体が競争するメタ社会
http://mojix.org/2008/11/03/meta_society