鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」
先日の「なぜ日本ではブラック会社が淘汰されないのか 日本は雇用の流動性が低いから、労働者の価値が低い」は、はてなブックマークでも反響が大きく、この問題への関心の高まりを感じた。
このテーマは、専門家のあいだでもいろいろな見方があるので、素人レベルでも意見が割れるのは当然だろう。私も専門家ではない、ただの素人なので、不正確だったり、見方が偏っているところはもちろんあると思う。しかし、解雇規制をなくすべきという私のような見方は、専門家のあいだでも一定の支持を得ていることも確かだ。
ウィキペディアの「正規社員の解雇条件緩和論」というページには、解雇規制の緩和を主張している著名な論者がまとめられている。この中にもリンクがある、鶴光太郎氏の論文「日本の労働市場制度改革」をここでは紹介してみたい。
RIETI - 鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」(2008年5月)(PDF)
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/08j015.pdf
<本稿は欧米諸国の経験・実証分析や最近の経済学、特に市場がうまく機能するためにはその土台から支えるインフラストラクチャーとしての「制度」が重要であるという「比較制度分析」の基本認識に立脚し、日本の労働市場制度改革に求められる5つの視点を提示する>
に始まる論文で、次の「5つの視点」を提示している。
1 「インサイダー重視型」から「マクロ配慮型」に向けた労働市場制度改革
インサイダーである正社員だけでなく非正規社員、企業、ひいてはマクロ経済全体へインパクトを考慮した改革
2 「他律同質型」から「自律多様型」に向けた労働市場制度改革
正規・非正規間の格差問題への対応と労働時間の柔軟性拡大
3 「一律規制型」から「分権型」に向けた労働市場制度改革
分権的な労使自治を基本としたルール作りや問題解決を促進
4 「弱者」から「エンパワー化された個人」に向けた労働市場制度改革
個々の労働者の交渉力を向上させる能力開発や外部労働市場の整備
5 「縦割り型」から「横断型」に向けた労働市場制度改革
労使の「綱引き」、「ゼロサム・ゲーム」を超えて広い視野に立ち、透明性の高い改革プロセスを実現
全部で50ページ程度あるが、記述のスタイルも読みやすく、特に専門知識も必要ないので、興味さえあれば読めると思う。ブログなどでもよく話題になる労働・雇用のテーマ(非正規雇用を規制すべきか、日本企業の長時間労働など)がたくさん詰まっていて、それを国際比較やデータ、専門的知見をベースにして見事に解説し、前向きな提言につなげている。これほど本格的な内容のものを、わざわざ本を買わなくてもネットですぐに読めるというのはありがたい。
以下、この論文からいくつか引用してみよう。
■ 必ずしも労働者全体の利益にならない強制的な労働保護
<労働市場制度の必要性を支持する考え方として、「労働市場は必ずしも完全ではなく、労働者は「弱者」であり、保護されなければならない」という伝統的な見方がある。しかし、労働者保護を目的とした制度設計は逆説的であるが必ずしも労働者を保護することにはならない場合が多い。雇い主側は労働者保護によるコストが高まればそれを前提とした対応を行うからである。例えば、解雇の規制を強めれば、その分、インサイダーの雇用は保護されるが、アウトサイダーの新規雇用は抑制され、失業者の失業期間は長期化する。これは、ヨーロッパにみられたように「履歴効果」(ヒステリシス)を通じた構造的失業の上昇につながる可能性が高い>。
■ 解雇規制のリスク・テイキング抑制効果
<第三は、解雇規制は企業のリスク・テイキングを抑制する、つまり、企業家精神や革新的なイノベーションを直接的に抑制するという効果である。企業がよりハイリスク・ハイリターンを狙った製品開発を行うとしよう。その場合、その企業の製品に対する需要、ひいては生産の動向は予測しにくく、労働投入についてもより高い柔軟性が求められる。したがって、解雇規制が強い場合は、こうした予測しがたい変動に対応できるだけの柔軟性に欠けているため、ハイリスク、ハイリターンを狙うリスク・テイキングが抑制されることになる>。
<Saint-Paul (2002)は、解雇費用の高い国は、国際分業を行う場合、まったく新しい製品開発に結び付くような「一次的技術革新」(primary innovation)よりも既存の製品の生産効率を高めるような「二次的技術革新」(secondary innovation)に特化することを理論モデルで示した。別の言い方をすれば、より抜本的なプロダクト・イノベーションよりも既存の技術の連続的・累積的改良を意図したプロセス・イノベーションの方が解雇規制の強く、企業特殊な人的資本の蓄積を重視する内部労働市場中心の雇用システムと親和性が高いといえる>。
■ 労働時間規制根拠の再検討
<ここで労働時間規制の根拠をもう一度考えてみよう。しばしば、規制がなければ、「奴隷」状態を彷彿させるような無制限な長時間労働が健康や家庭生活へ悪影響を与えることが懸念されることが多い。しかし、現実には転職の自由が確保され、そのような長時間労働が雇い主の評判の低下することを考えるとそのような懸念は必ずしも説得的とは言えない。むしろ、自分の希望等に見合った労働時間の仕事をみつける広義の転職コストがゼロであるような競争的な労働市場が存在すれば、労働時間規制の必要はないはずである>。
■ 自発的な長時間労働:ワーカホリックと所得志向の区別
<一方、以上のように一定の労働時間規制の根拠は認めても、自発的に長時間労働している労働者に関しては必ずしも問題ではないという主張もみられる。つまり、ワーカホリック(「仕事中毒」)の場合である。ワーカホリックな労働者は仕事が好きで長時間労働を厭わない特殊な選好を自らの選択で満たしているという解釈である。このような労働者に対して労働時間規制はあまり根拠を持たないであろう。しかし、ワーカホリックを議論する場合、狭い意味での純粋な仕事中毒者と「余暇よりも所得志向」である自発的な長時間労働者を区別することが重要だ>。
<したがって、会議などの情報や意思決定にかかわるコーディネーションが長時間労働の要因になっているのであれば、やはり、それを一律的な法制で解決することは難しい。むしろ、ITなどの力を借りて人力ではない新たな情報コーディネーション・システムを企業内に作ることが求められている。例えば、ピラミッド型の階層構造的な組織でボトムアップ型の意志決定を行うのではなく、中抜き・モジュール化された現場部門の情報をトップがITを活用しダイレクトに吸い上げ、集権的な意志決定を行う。また、組織内での情報の共有はデジタル化できることは徹底した上で、必ずしもフォーマルな会議ではなく、創造的な議論・アイディアが生まれるような「場」を作ることも対応策の一つとして考えられる>。
<そもそも自律的な働き方が行われるためには、ジョブ・ディスクリプション(職務・権限内容・範囲)を明確に規定する必要がある。また、会議だけでなくチームワークでの業務が多いことが自律的な働き方を困難にしていることも多い。したがって、常に他のメンバーと事後的なコーディネーションが必要な「すり合わせ型」の働き方からジョブ・ディスクリプションが事前に明確化され、情報はITを活用して効率的に共有されるなかで、各人がより自律的に仕事ができる「モジュール化」の働き方を志向することが必要である。それが自主性に基づき自らの労働時間をコントロールすることにつながる。一方、過度な長時間労働は、第5節で後述するように転職の容易さなどの労働者の交渉力向上で解決していくべき問題である>。
<最後に、長時間労働は社会的規範、文化にも密接に関連している。自律的な働き方が促進されるためには、労働時間でやる気や組織への忠誠度などが評価される企業風土が変わり、残業で残っていることはかえって自分の能力の低さなどをシグナルするマイナス要因であるという意識が共有されるようになる必要がある。つまり、労働時間規制の適用除外なども杓子定規な条件付けを行うのではなく、労使ともに長時間労働で能力ややる気が評価されるという「共有化された予想」が変化する中で、労使自治を基本にケースバイケースで決められていくことが重要なのである>。
以上は抜粋であり、論文の文脈の中で読まなければ本来の意味が通らないので、ぜひ論文自体を読んでみてほしい。あくまでも、内容の雰囲気を感じてもらうための抜粋である。このほかにも、面白い箇所がたくさんある。
ここに抜粋した部分だけ見てもわかるように、なぜ日本からGoogleやAppleのような革新的な企業が出ないのか、なぜ日本では会議がダラダラ続いたり、長時間労働が定着してしまっているのか、といった身近な問題についても、その原因のひとつが解雇規制であるかもしれないのだ。労働を規制によって固定してしまうことの弊害は、決して小さくない。
関連:
ウィキペディア - 正規社員の解雇条件緩和論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3..
VCASI - 社会科学の役割は「見晴らしのいい丘」:鶴光太郎氏インタビュー
http://www.vcasi.org/interview/role-of-social-science
関連エントリ:
常木淳 「不完備契約理論と解雇規制法理」
http://mojix.org/2009/05/03/tsuneki_kaikokisei
日本の賃貸住宅ではなぜ保証人を要求されるのか 「保護」がむしろ「弱者」を生む日本の構造
http://mojix.org/2009/04/02/chintai_hoshounin
徹夜は恥だ
http://mojix.org/2008/09/25/tetsuya_haji
日本のネットベンチャーが技術革新よりも 「ネット財閥」 をめざす理由
http://mojix.org/2005/10/30/233716
このテーマは、専門家のあいだでもいろいろな見方があるので、素人レベルでも意見が割れるのは当然だろう。私も専門家ではない、ただの素人なので、不正確だったり、見方が偏っているところはもちろんあると思う。しかし、解雇規制をなくすべきという私のような見方は、専門家のあいだでも一定の支持を得ていることも確かだ。
ウィキペディアの「正規社員の解雇条件緩和論」というページには、解雇規制の緩和を主張している著名な論者がまとめられている。この中にもリンクがある、鶴光太郎氏の論文「日本の労働市場制度改革」をここでは紹介してみたい。
RIETI - 鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」(2008年5月)(PDF)
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/08j015.pdf
<本稿は欧米諸国の経験・実証分析や最近の経済学、特に市場がうまく機能するためにはその土台から支えるインフラストラクチャーとしての「制度」が重要であるという「比較制度分析」の基本認識に立脚し、日本の労働市場制度改革に求められる5つの視点を提示する>
に始まる論文で、次の「5つの視点」を提示している。
1 「インサイダー重視型」から「マクロ配慮型」に向けた労働市場制度改革
インサイダーである正社員だけでなく非正規社員、企業、ひいてはマクロ経済全体へインパクトを考慮した改革
2 「他律同質型」から「自律多様型」に向けた労働市場制度改革
正規・非正規間の格差問題への対応と労働時間の柔軟性拡大
3 「一律規制型」から「分権型」に向けた労働市場制度改革
分権的な労使自治を基本としたルール作りや問題解決を促進
4 「弱者」から「エンパワー化された個人」に向けた労働市場制度改革
個々の労働者の交渉力を向上させる能力開発や外部労働市場の整備
5 「縦割り型」から「横断型」に向けた労働市場制度改革
労使の「綱引き」、「ゼロサム・ゲーム」を超えて広い視野に立ち、透明性の高い改革プロセスを実現
全部で50ページ程度あるが、記述のスタイルも読みやすく、特に専門知識も必要ないので、興味さえあれば読めると思う。ブログなどでもよく話題になる労働・雇用のテーマ(非正規雇用を規制すべきか、日本企業の長時間労働など)がたくさん詰まっていて、それを国際比較やデータ、専門的知見をベースにして見事に解説し、前向きな提言につなげている。これほど本格的な内容のものを、わざわざ本を買わなくてもネットですぐに読めるというのはありがたい。
以下、この論文からいくつか引用してみよう。
■ 必ずしも労働者全体の利益にならない強制的な労働保護
<労働市場制度の必要性を支持する考え方として、「労働市場は必ずしも完全ではなく、労働者は「弱者」であり、保護されなければならない」という伝統的な見方がある。しかし、労働者保護を目的とした制度設計は逆説的であるが必ずしも労働者を保護することにはならない場合が多い。雇い主側は労働者保護によるコストが高まればそれを前提とした対応を行うからである。例えば、解雇の規制を強めれば、その分、インサイダーの雇用は保護されるが、アウトサイダーの新規雇用は抑制され、失業者の失業期間は長期化する。これは、ヨーロッパにみられたように「履歴効果」(ヒステリシス)を通じた構造的失業の上昇につながる可能性が高い>。
■ 解雇規制のリスク・テイキング抑制効果
<第三は、解雇規制は企業のリスク・テイキングを抑制する、つまり、企業家精神や革新的なイノベーションを直接的に抑制するという効果である。企業がよりハイリスク・ハイリターンを狙った製品開発を行うとしよう。その場合、その企業の製品に対する需要、ひいては生産の動向は予測しにくく、労働投入についてもより高い柔軟性が求められる。したがって、解雇規制が強い場合は、こうした予測しがたい変動に対応できるだけの柔軟性に欠けているため、ハイリスク、ハイリターンを狙うリスク・テイキングが抑制されることになる>。
<Saint-Paul (2002)は、解雇費用の高い国は、国際分業を行う場合、まったく新しい製品開発に結び付くような「一次的技術革新」(primary innovation)よりも既存の製品の生産効率を高めるような「二次的技術革新」(secondary innovation)に特化することを理論モデルで示した。別の言い方をすれば、より抜本的なプロダクト・イノベーションよりも既存の技術の連続的・累積的改良を意図したプロセス・イノベーションの方が解雇規制の強く、企業特殊な人的資本の蓄積を重視する内部労働市場中心の雇用システムと親和性が高いといえる>。
■ 労働時間規制根拠の再検討
<ここで労働時間規制の根拠をもう一度考えてみよう。しばしば、規制がなければ、「奴隷」状態を彷彿させるような無制限な長時間労働が健康や家庭生活へ悪影響を与えることが懸念されることが多い。しかし、現実には転職の自由が確保され、そのような長時間労働が雇い主の評判の低下することを考えるとそのような懸念は必ずしも説得的とは言えない。むしろ、自分の希望等に見合った労働時間の仕事をみつける広義の転職コストがゼロであるような競争的な労働市場が存在すれば、労働時間規制の必要はないはずである>。
■ 自発的な長時間労働:ワーカホリックと所得志向の区別
<一方、以上のように一定の労働時間規制の根拠は認めても、自発的に長時間労働している労働者に関しては必ずしも問題ではないという主張もみられる。つまり、ワーカホリック(「仕事中毒」)の場合である。ワーカホリックな労働者は仕事が好きで長時間労働を厭わない特殊な選好を自らの選択で満たしているという解釈である。このような労働者に対して労働時間規制はあまり根拠を持たないであろう。しかし、ワーカホリックを議論する場合、狭い意味での純粋な仕事中毒者と「余暇よりも所得志向」である自発的な長時間労働者を区別することが重要だ>。
<したがって、会議などの情報や意思決定にかかわるコーディネーションが長時間労働の要因になっているのであれば、やはり、それを一律的な法制で解決することは難しい。むしろ、ITなどの力を借りて人力ではない新たな情報コーディネーション・システムを企業内に作ることが求められている。例えば、ピラミッド型の階層構造的な組織でボトムアップ型の意志決定を行うのではなく、中抜き・モジュール化された現場部門の情報をトップがITを活用しダイレクトに吸い上げ、集権的な意志決定を行う。また、組織内での情報の共有はデジタル化できることは徹底した上で、必ずしもフォーマルな会議ではなく、創造的な議論・アイディアが生まれるような「場」を作ることも対応策の一つとして考えられる>。
<そもそも自律的な働き方が行われるためには、ジョブ・ディスクリプション(職務・権限内容・範囲)を明確に規定する必要がある。また、会議だけでなくチームワークでの業務が多いことが自律的な働き方を困難にしていることも多い。したがって、常に他のメンバーと事後的なコーディネーションが必要な「すり合わせ型」の働き方からジョブ・ディスクリプションが事前に明確化され、情報はITを活用して効率的に共有されるなかで、各人がより自律的に仕事ができる「モジュール化」の働き方を志向することが必要である。それが自主性に基づき自らの労働時間をコントロールすることにつながる。一方、過度な長時間労働は、第5節で後述するように転職の容易さなどの労働者の交渉力向上で解決していくべき問題である>。
<最後に、長時間労働は社会的規範、文化にも密接に関連している。自律的な働き方が促進されるためには、労働時間でやる気や組織への忠誠度などが評価される企業風土が変わり、残業で残っていることはかえって自分の能力の低さなどをシグナルするマイナス要因であるという意識が共有されるようになる必要がある。つまり、労働時間規制の適用除外なども杓子定規な条件付けを行うのではなく、労使ともに長時間労働で能力ややる気が評価されるという「共有化された予想」が変化する中で、労使自治を基本にケースバイケースで決められていくことが重要なのである>。
以上は抜粋であり、論文の文脈の中で読まなければ本来の意味が通らないので、ぜひ論文自体を読んでみてほしい。あくまでも、内容の雰囲気を感じてもらうための抜粋である。このほかにも、面白い箇所がたくさんある。
ここに抜粋した部分だけ見てもわかるように、なぜ日本からGoogleやAppleのような革新的な企業が出ないのか、なぜ日本では会議がダラダラ続いたり、長時間労働が定着してしまっているのか、といった身近な問題についても、その原因のひとつが解雇規制であるかもしれないのだ。労働を規制によって固定してしまうことの弊害は、決して小さくない。
関連:
ウィキペディア - 正規社員の解雇条件緩和論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3..
VCASI - 社会科学の役割は「見晴らしのいい丘」:鶴光太郎氏インタビュー
http://www.vcasi.org/interview/role-of-social-science
関連エントリ:
常木淳 「不完備契約理論と解雇規制法理」
http://mojix.org/2009/05/03/tsuneki_kaikokisei
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