2010.01.23
リバタリアニズムのキモは「強制しない」こと
リバタリアニズムという考え方のキモは、「強制しない」ことだ。

政府はできるだけ小さくして、市場に任せるべしという「小さな政府」の考え方も、「強制しない」ということから出てくる。政府は強制するものであり、また強制することが許されている唯一の存在だからだ。いっぽう市場では、つねに両者が合意のもとに取引するので、「強制」が入り込まない。

政府をできるだけ小さくすることは、「強制」をできるだけ小さくすることだ。リバタリアニズムが政府を嫌い、市場を好むのは、政府は強制するものであり、市場は強制しないものだからだ。

「他人からされてイヤなことは、他人にしてはいけない」と、子供の頃から何度となく聞かされてきた。その教えがいかに正しく、また重要なものだったか、いまは実感としてわかる気がする。「強制」とは、その人がイヤがっているのに、無理やり何かをすることだ。これほど、人間の自由と尊厳を破壊するものはない。

しかし同時に、自由はしばしば衝突するものでもある。誰かが自由にふるまった結果、別の人の自由を侵害する場合がある。こういう場合、その人の「自由の範囲」はどこまでなのか、境界を確定する必要が生じる。自分の身体や持ち物については、自分が自由にする権利があるが、相手の身体や持ち物に手を出す「自由」はない。これは明らかだろう。しかし、自分の持ち物でも相手の持ち物でもない「公共空間」でのふるまいといった話になると、話はいくらかややこしくなる。

「自由の範囲」の確定がむずかしい場合があることも確かだが、「強制しない」という原理、個人の「自由」の重要性は普遍的なものであり、これにこだわるのがリバタリアニズムである。

リバタリアニズムは、人間の多様性を尊重する。人間はそれぞれの価値観、人生観、世界観を持っているし、それぞれの得意・不得意、信念、好み、知力、体力、クセ、事情などを持っている。リバタリアニズムは、他人や社会に迷惑をかけない限り、人間は何をやろうが、どう生きようが自由だと考える。また、合意した複数の人間が、合意した範囲で何をやろうが自由だと考える。

これに対して、「あなたはこうしたほうが幸せになります、だからこうしなさい」と画一的に「強制」するのが、「パターナリズム」である。こういう強制が許されるのは通常、親が子供に対しておこなう「強制」だけだろう。「パターナリズム」の語源はまさに「父親」(ラテン語のpater(パテル、父))であり、パターナリズムとは「親が子供に対しておこなうような強制」なのである。

この「親が子供に対しておこなうような強制」を、さまざまにおこなっているのが政府である。特に日本政府は、このパターナリズムの傾向が強い。つまり日本政府は、国民をまさに「子供扱い」しているのであり、「責任」を負わせないかわりに、「自由」を与えていないのだ。


関連エントリ:
「訪問販売お断りシール」問題 相手のいやがることをする「自由」はない
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「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
http://mojix.org/2009/08/13/kuuki_sekinin
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http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei