2010.06.20
大学生が不祥事を起こしたら、その大学に責任があるのか?謝罪の「安売り」は謝罪の「インフレ」をひき起こす
ITmedia - 首都大学東京、学長名で謝罪 学生の「ドブス」動画問題(2010年06月18日 16時47分 更新)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/18/news063.html

<首都大学東京の学生が「ドブス写真集完成までの道程」と称して一般人を撮影した動画をネットで公開した問題で、同大学は6月18日、「多大なご迷惑をかけ、深くおわびします」という原島文雄学長名の謝罪文をWebサイトに掲載した。学生に対しては「厳正に対処する」としている>。

大学生が不祥事を起こしたとき、その大学が謝罪するというのをよく見かけるが、私はいつもこれを疑問に思う。

その大学生を育てた親であれば、いくらか責任があるという考え方もできるだろう。しかし、大学に責任があるとは思えない。むしろ被害者だろう。「首都大学東京には、こんなバカな学生がいるのか」と思われてしまうので、評判に傷がつく。

大学側がコメントを出すなら、「本学にこんなバカな学生がいたことは遺憾であり、ただちに処分する。本学の学生は、社会の一員として立派な行動をしてほしい」といったものでいいと思う。

大学に限らず、こういう「とりあえず謝っておけばいいか」というタテマエの謝罪が、日本ではよく見られる。しかし、ほんとうに謝るべきときに謝るのはいいが、謝るべきでないときにも謝ることが習慣化するのはよくない。

日本では、対立や衝突を回避するために、自分の主張を早々と取り下げて、相手に話を合わせるというスキルが一種の「コミュニケーション能力」になっている。これだと、対立や衝突は回避されるかもしれないが、対立や衝突によって浮かび上がってくる「問題」に正面から取り組むこともなくなり、「問題」がむしろ隠蔽され、放置されることになる。

「とりあえず謝っておけばいいか」というタテマエの謝罪は、対立や衝突をあらかじめ回避するという日本的メンタリティを象徴するもののひとつだろう。これは「思考停止」につながる態度であり、「問題」に取り組むことを避ける姿勢のあらわれとも言える。その意味では、表向きは「責任」を取っているように見えながら、むしろ誠実さを欠いた「無責任」な態度ではないだろうか。

この記事にも、<同大学に対し、電話で抗議する“電凸”も相次いだもようだ>とあるが、「とりあえず謝っておけばいいか」というタテマエの謝罪が出てくる大きな原因は、こういう筋違いの抗議や、社会的圧力が日本では少なくないからだ。責任があるのはあくまでも、不祥事を起こした「個人」なのに、なぜかその人が属する「組織」が責められてしまうのだ。責任が「個人」よりも「組織」に帰属させられ、さらに「空気」のなかに責任が拡散してしまうという日本の特徴は、良くも悪くも「個人」を突出させない、という文化と切り離せないところがあるのかもしれない。

「個人」に「責任」を負わせるというのは、まさに「独立」の理念である。日本は良くも悪くも、「個人」を「独立」させずに、「組織」に帰属させたがる傾向がある。これを日本の「美点」だと感じる人もいるだろうが、私はこれこそが日本の大きな「弱点」であり、克服すべきものだと思う。

「個人」の不祥事に対して、「組織」がタテマエの謝罪を続けていると、それが「あたりまえ」だと思う人が増えていく。こうなると、「組織」が謝罪しないわけには行かなくなる。いわば、謝罪の「安売り」によって、謝罪の「インフレ」が起きるのだ。こうして謝罪の「中身」が希薄化していき、うわべだけのものになる。それは謝罪する側にも謝罪される側にも「思考停止」をもたらし、真の問題解決はむしろ遠ざかるのだ。


関連エントリ:
「自立的尊厳観」と「依存的尊厳観」 宮台真司「尊厳と国家について」(1999)
http://mojix.org/2009/10/07/miyadai_songen
郷原信郎『「法令遵守」が日本を滅ぼす』 法令と実態が乖離した「法治国家ではない日本」
http://mojix.org/2009/08/18/gouhara_hourei_junshu
「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
http://mojix.org/2009/08/13/kuuki_sekinin