2009.10.07
「自立的尊厳観」と「依存的尊厳観」 宮台真司「尊厳と国家について」(1999)
MIYADAI.com - 尊厳と国家について(熊本日日新聞 1999年5月2日(日)朝刊一面・論壇)
http://www.miyadai.com/texts/kumanichi/02.php

<人間の尊厳とは何か。思想史上二つの考え方がある。一方に、崇高なるもの・大いなるものとの一体化で得られる自尊心こそが尊厳だとする尊厳観がある。他方に、尊厳とは社会関係の中での自由な試行錯誤の積み重ねで得られる自尊心だとする尊厳観がある>。

<双方とも考え方の歴史は古いが、前者は一九世紀のドイツ国法学において洗練、後者は一八~一九世紀の英国自由主義哲学で洗練された。先の大戦で枢軸国側(日独伊など)は例外なく前者を採用し、連合国側(英米仏など)の大半が後者を採用していた歴史がある>。

<この分岐は愛国心についての思考を規定する。国法学的思考では、一体化の対象たる大いなるものイコール国家となる。自由主義哲学的思考では、自由な試行錯誤を支える公共財は血によって購われてきたものだからタダ乗りは許されず献身は貴いという発想になる>。

<日本の場合、税金というとエラいお上に召し上げられる年貢の延長線上に考えられている。GHQの検閲によって検閲なき社会を達成した日本の場合、市民的自由のための公共財を自らの血で購った記憶がないので、こうした税金観=国家観が継続し続けている>。

<そのため、見かけは連合国と遜色ない制度を達成したように見えながら、その制度を生きる人々の多くが連合国的な自立的尊厳観から程遠い、枢軸国的な依存的尊厳観を生き続けている。所属のゲタをはく依存的尊厳観は、今でも日本人の多くを規定し続けている>。

<社会学者には周知だが、日本であなたのアイデンティティは?と尋ねると、会社だ、学校だ、家庭だと所属対象を答えてしまう。アイデンティティとは、会社をクビになろうが家庭が崩壊しようが、自分は自分だと言い続けられる根拠なのに、全然理解されていない>。

宮台真司氏の10年前の原稿。

「自立的尊厳観」では、自立・独立していることが誇りになる。いっぽう「依存的尊厳観」では、何かに従属・所属していることが誇りになる。

バーリンの「消極的自由」と「積極的自由」や、蔵研也氏のいう「クニガキチント」にもつながる話。

日本では「どこに所属しているか」で決まってしまう「身分制度」の話にもつながるし、DDIやイー・アクセスの創業者、千本倖生氏の留学時のエピソードも思い出す。

以前「私は属性を信じない 私が信じるのは固有名詞だ」というエントリで書いたことがあるが、私は属性や所属、肩書きで人を値踏みするような日本の風潮が大嫌いだ。いっぽう私の好きなものは、福沢諭吉の「独立」精神や、政治では「小さな政府」など、ひとりひとりが責任を引き受けて、自由も得るという「独立」の方向だ。

私は「自立的尊厳観」が好きで、「依存的尊厳観」が嫌いだということに尽きる。


関連エントリ:
「大きな政府」論者と「小さな政府」論者
http://mojix.org/2009/09/09/big_gov_small_gov
日本の問題は「市場の失敗」でなく「政府の失敗」
http://mojix.org/2009/08/29/nihon_no_mondai
消極的自由と積極的自由
http://mojix.org/2009/05/02/two_concepts_of_liberty